私の目の前にあるもの
私の目の前にあるもの
牧師 小島 正義
「まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。
私の罪は、いつも私の目の前にあります。」
(詩編51の3)
私たち人間は、素手では何もできないし、何も知ることができません。しかし人間以外の外の動物は違います。動物は自分の体の部分で自然現象を用います。たとえば犬の場合は、自分の鼻の頭による方向感知。犬は濡れた自分の鼻の頭を風にさらして風上のにおいをかぎ分け、迷わないで自分の来た場所に正確に戻ることができます。
しかしこの優れた動物の感知力も表面的なものだけに限られ、内面的なものに対しては全く無力です。また、動物は内面的なものに対しては無関心です。私たち人間は動物に比べ、外面的なものに対しては鈍感ですが、内面的なものに対しては鋭敏です。
上記の聖句はダビデの告白です。彼は自分の内側(内面)がどのようになっているのか分かっています。「私は自分のそむきの罪を知っている。私の罪はいつも私の目の前にある。」とダビデは悩みを告白しています。私たちの生来(生まれつき)の姿についてダビデは、「私は咎あるものとして生まれ」と言っています。この意味は、「私たちは生まれたときより悪に染まっている。私たちは悪の性質を持って生まれてきたのである。」と言うことです。またダビデはこのようにも言っています。「罪あるものとして母は私を身ごもりました」。私たちは罪(悪)の性質を自分の親より受け継いできたのです。私たちがこの世に生まれ出る前に、つまり母が私たちを身ごもった時に、それと同時に罪の性質も持って母の体に宿ったのです。これは間違いのない事実です。なぜなら神の言がそのように宣言しているからです。
しかし私たちはこの忌まわしい(呪われた)状態より逃れたいという願望を持っています。ダビデはこう言っています。「わたしのそむきの罪をぬぐい去って下さい。私を洗って下さい。私の咎をことごとくぬぐい去って下さい。」これはダビデの心よりの叫びです。神に助けと救いを呼び求めているのです。また、この句は「神がして下さる」という可能性を教えているのです。実際、ダビデはこの叫びの祈りの後、罪から自由にされました。あなたもダビデのように神さまに祈り、叫び求めてはいかがでしょうか。