第1章 人間の痛み 

 第1節 肉体の痛み

 人間の痛みのことに関して考えて行くなら、まず人間そのものについて考察していかなければならない。人間とは、一体如何なるものであるのか。人間は、単なる肉の塊だけの存在者だけではない。

 人間とは

 人間とは1)一体、何者なのであろうか。これはとても遠大なテーマであり、私たち人間の小さな頭脳では、考え得ることは不可能である。

 1)ヘブル語、ギリシャ語共に幾つかの語が用いられている。ヘブル語では、アーダームは、最初の人の名(創世5の1,ルカ3の38,ロマ5の14,Ⅰコリ15の45)であり、人間の通称でもある。ギリシャ語では、アンスローポスは人間一般、アネールは女と対比される人(男)及び一般に人間を指す。

詩篇の著者も、人について、こう言っている。「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」1)。これは詩篇の著者が神に、人間とは何者なのであろうか。このような小さな、哀れなものに心を止めて下さるとは、と問うている。即ち、神によらなければ、人間そのものは不可解で終わってしまう。

 しかし聖書の教えている人間観は、実に明確なものである。人間は神のかたちに創造されたのである2)。しかし人間は陶器師である神の手によって創造された被造物であり、その素材は単なる粘土であったと教えている3)。

しかし人間の構成要素を見てみると、人間を構成している要素は魂、霊、からだの三つの要素であると教えている4)。

 1)詩篇8の4

 2)創世記1の27

 3)ローマ書9の21

 4)テサロニケ前書5の23

そしてすべての被造物はその生成、存在、終わりのすべてが神に全く依存している1)。人間は神によっていのちと万物とを与えられて豊かなものとなった2)。又人間は神によって生活し、すべての面で神によって活動している3)。

 1)創世記1の26

 2)使徒の働き17の25

 3)使徒の働き17の28

 著者の人間観は、勿論この世の教えている人間観に準拠していない。著者は聖書の教えている人間観に従っている。人間は神によって創造され、すべての人間の行動は神の管理下で営まれ、維持されている。神によらなければ人間の存在意義は意味をなさないし、それは無意味になってしまう。まさに人間は神によって生かされ、神によって養われ、守られている。

 しかし、もう少し人間について、人間の視点から考えてみる必要がある。それで実存主義者であるボーヴォワールは、「初め、われわれが天空に求めていたあの絶対的な目的を、われわれは人間そのものの中に見出すことが出来るのではないでしょうか?」1)と問いかけている。人間は天空(永遠的なもの)に求めていたもの、それが絶対的な目的と呼ばれている。それは人間そのものの中にあったと、ボーヴォワールは言っている。

 人間とは、永遠的なものを常に、恒常的に、求めてやまないものなのである。そのように神は、人間を創造された2)。人間は、永遠的な存在者である、神に魅力を感じ、また、母性愛を感じ、神に引かれる。何故なら、人間は神の豊かな創造の手によって造られたから。

 ボーヴォワールは、更に、「つまり、彼女(人間)は肉と骨から成る人間で出来ているのです。」3)と語っている。

 1)シモンヌ・デ・ボーヴォワール、青柳瑞穂訳、『人間について』、(新潮文庫)、P49

 2)イザヤ書45の12

 3)シモンヌ・デ・ボーヴォワール、青柳瑞穂訳、『人間について』、(新潮文庫)、P49

私たち人間は、医学的見地に立って1)、人間を観察するなら、肉と骨によって構成されている。即ち、単なる物質の一つにすぎない。しかしこの肉と骨に、生命が吹き込まれることによって、真の人間になる2)。

 1)現代医学ではもっと進んだ考察をしている。日野原重明、『現代医学と宗教』、(岩波書店)、PP225-231を参照

 2)創世記2の7

 その事について、旧約聖書の中で、エゼキエルは、このように言っている。「私は命じられたように予言した。私が予言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつらなった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。そのとき、主は仰せられた。『息に予言せよ。人の子よ。予言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ』私が命じられたとおりに予言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。」1)。エゼキエルは、単なる物質にすぎない肉と骨に、神の息が吹き込まれた時に、その物質でしかなかったものが、生ける、真の人間に変貌したのを見た。人間は神との関係を持つことによって、意味のある存在者になる。

 1)エゼキエル書37の7ー10

 そして、ボーヴォワールは、こうも言っている。「人間は、一つの組織の部分として表示された者です。つまり、人は彼らの一人のために働くことによって、万人のために働くことになるわけです。ここに於いて、自然経済が存在することになり、この経済に応じて、各人の場は、他のあらゆる人々の場によって決定されることになります。しかし、実にこれは、外面性の繋りに於いて人間を確定することです。」1)。ここで彼女は言っている。人間は、自然経済の中で、他の人間と協調することによって、人間は組織の中で機能することになる。そして、その一人の働きが、大勢の人の日々の糧を与えていると、述べている。即ち、人間は一人で生きて、生活していくことは、不可能なのである。人間は、誰かを支えながら、自分も他人によって支えられていかなければならない。

 1)シモンヌ・デ・ボーヴォワール、青柳瑞穂訳、『人間について』、(新潮文庫)、P51

 次に、ボーヴォワールは、こうも言っている。「戦争、ストライキ、変動は、人間たちの間に、預め設定された調和の何等していないことを示します。初めから、人間は互いに寄りかかっているわけではありません。なぜなら、初めから彼等は存在しているわけではないのですから。彼等は今後存在すべき筋合いのものなのです。」1)。人間はお互いに、この社会で調和をして、お互いの存在を認知していくことに困難を感じている。いつも他人を蔑視し、他人の弱点を批判し、争いの種を蒔いている。本来、人間は相互に助け、補助し、寄りかかって生きて行くべき原理を働かすには、あまりにも人間の本質が薄弱である。何故なら人間は、初めから存在していなかったからであると、ボーヴォワールは言って、人間の人格の喪失を指摘している。そして、人間の資質の向上を、将来に期待している。

 1)シモンヌ・デ・ボーヴォワール、青柳瑞穂訳、『人間について』、(新潮文庫)、PP53-54

 又、ボーヴォワールは、人間の連帯関係の困難性について、「一人の人間が、自分の周りに他の人間たちを位置づけることによって自分を位置づけるのは、世界の中に自分を投入することによってです。こうして、連帯関係はつくられます。だからといって、一人の人間が、他のすべての人間と連帯関係をむすぶことなど出来はしません。なぜなら、彼等の選択が自由である以上、彼等はみなが同じ目的を選びはしないからです。」1)。私たちはこの世に於いて、自分の存在を認識して、位置づけるのは、他人の存在を認識し、位置づけることから始まる。こうして、私と他人との連帯関係が始まるが、しかし、この連帯関係は局部的な関係でしかあり得ない。大勢の人間との連帯関係を結ぶことは不可能なのである。その理由は、各人の目的の選択が異なるからである。人間という共通弧を持っているが、その人間性の目的の選択は、自由で、複雑で、異質的だからである。

 1)シモンヌ・デ・ボーヴォワール、青柳瑞穂訳、『人間について』、(新潮文庫)、P54

 人間の超越性に関して、ボーヴォワールは、ニイチェの『華やかな智慧』の中から引用して、こう言っている。「かようにして、人間の超越性は、どの瞬間の中でも完全に把握されることになります。なぜなら、どの瞬間の中にも、先行の瞬間が保存されているでしょうから。而して、人間超越性がそれらの瞬間のどの一つの中でも凝結するということはありますまい。なぜなら、進歩がつねに後から続きますから。」1)。人間の超越性にには夢があり、希望がある。なぜなら、超越性には、それを閉じこめておく壁の仕切りがないからである。人間の超越性は、常に時限の外に進捗して行くからである。又、人間の超越性は時限という壁を打破して、永遠という天空に接近を試みて、そこから希望の境界を造りだしていく。ここに人間は挑戦して、生の意義を見出している。

 1)シモンヌ・デ・ボーヴォワール、青柳瑞穂訳、『人間について』、(新潮文庫)、P55

 人間が作り出そうとしているものに関して、ボーヴォワールは、こう確信している。「人間の手によって作り出されるものは、たちまち、歴史の満潮干潮によって尽く押し流され、新しい瞬間ごとに新しく造られ、その周囲に、無数の思いがけない渦巻きを出現させます。」1)。人間の思想によって作り出されたものは、歴史の満潮干潮、歴史の検証によって、押し流されて、すべて過去の渦巻きの中に埋没されてしまう。そして、その後から、思いもしない、新しい発見を体験させられる。

 ボーヴォワールは、人間をどう見ているかについて、こう言っている。「人間は二つの方法で世界に現存していることをわれわれは見ました。すなわち、人間は物体です。他人の超越性に追越される興件です。そしてまた人間は、彼自身、未来に向かって身を投げる超越性でもあります。」2)。ボーヴォワールは、人間を単なる物体としてしか見ていない。しかし、人間を物体化してしまうには、何か割り切れない、思想の余韻を残してしまう。

 1)シモンヌ・デ・ボーヴォワール、青柳瑞穂訳、『人間について』、(新潮文庫)、PP57-58

 2)同上P61

当然人間は、肉体と心と魂の持った存在者であるからである。こう考えるなら、人間を、単なる物体であると説得するには、論理が弱小である。

 そして、ボーヴォワールは、結論的に、人間に関して、「かようにして、無限と関係をつけようとする人間のどんな努力も、空しいものであります。人間はユマニテ(人間)を介してしか、そして、ユマニテの中に於てしか、神と関係することが出来ません。そして、人類の中に於ても少数の人たちにしか絶対に到達しません。限定された位置しか築くことが出来ません。」1)と断言している。ボーヴォワールは、様々に思考した結果、到達した結論は、神との関係に於て、人間の実在を考えなければ、意味がないと思った。この世界は、神との関係を否定しながら、人間の実在を考えないようにしているところに、問題を混乱させ、複雑化させている。このボーヴォワールのことばに耳を傾聴すべきである。

 1)シモンヌ・デ・ボーヴォワール、青柳瑞穂訳、『人間について』、(新潮文庫)、P65

 人間的責任1)

 人間に対する責任について、沖中茂雄は、医学生についてこう語っている。「単に医学、医術に対する知識と技能とを証明するだけでなく、それに先だって、医師の道徳的、人間的責任についての覚悟を誓わせるのである。」2)。

 1)創世記3の1-7

 2)沖中重雄、『医師の心』、(東京大学出版会)、P95

医師なる者には、医学、医術に対する責任も重大であるが、それ以前の医師としての人間的責任が優先すると、沖中茂雄は強調している。この人間的責任は、専門職の医師ばかりでなく、人間一般にも言えることである。人間的責任の自覚のないものが、一人の人間としての存在意義を無意味にするだけでなく、人間そのものの失格者になる。人間は責任を自覚し、責任を実行する生物であり、物体である1)。

 1)聖書は人の責任について、「もし、正しい人がその正しい行いをやめて、不正を行うなら、わたしはかれの前につまづきを置く。彼は死ななければならない。それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行った正しい行いも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。」(エゼ3の20)と言っている。

 人体の構成

 人間の何たるかを知るために、私たちは、人間の人体の構成を知ることによって、より人間の理解の助けになる。何故なら、人間は生理学的に、複雑な人体を持っているからである。その人体の理解を助けるために、聖ルカ短期大学の日野原重明教授はこのように陳述している。「人体は多数の細胞(cell)によって築き上げられたのである。その細胞は形状の上から、または作用の上から種々のものが区別される。即ち受精した1個の卵細胞が体内で分裂し増殖する間に、種々の細胞に分化され、これらが総合されて個体となる。ある細胞は体表をおおうものとなり、ある細胞は体の支柱となり、又あるものは刺激を受けてこれを伝えるもの、収縮して運動を起こすものとなる。」1)。人間の人体は、不思議で、神秘に満ちたものである。たとえ医者であっても、人体の全てのことを知りつくし得ない。解剖学や生理学によって、人体の全てを知りつくしたとしても、未だ人体の神秘のベールの覆いを取り除くことは出来ない。何故なら、人間の人体は、人によって造られたのではなく、神の創造の御手によって、造られたからである。又、人間の人体は、その構成されている要素だけで、理解することは出来ない。人体と不可分な心と魂(霊)の問題が付加され2)、一緒になっているからである。この分野にまで踏み込まなければ、人間を理解したことには成らないからである。

 1)日野原重明、『解剖・生理学(高等看護学講座4)』、(医学書院)、P16

 2)テサロニケ前書5の23

 人体の発生

 私たちの世界では、人体の発生には謎が多く、その実態について、いろいろと思考されている。又、私たちの人体は非常に、よく出来ている。それでは人体は、どのように発生したのであろうか。そのことについて、埼玉大学の杉浦正輝教授は、「人体は、1つの卵子と精子が合体した受精卵からはじまる。受精卵は細胞分裂を続け、第3週には、内胚葉、中胚葉、外胚葉ができ、人体のあらゆる器官の基礎が完成する。外胚葉からは、皮膚の上皮、毛、爪、汗腺、乳腺、唾液腺、神経、感覚器の一部ができる。内胚葉からは、消化管の上皮、呼吸器の上皮、膵臓、肝臓などである。中胚葉から、骨格、筋、結合組織、血液、心臓、血管、リンパ管、泌尿生殖器などである。」1)と述べている。

 1)杉浦正輝、『生理学』、(全国社会福祉協議会)、P4

このように、私たちの人体の発生を観察すると、その発生のメカニズムそのもの自体も、非常に不思議である。誰が、このような発生の原則(原理)に基づいて、人間を誕生させたか、又、人体の内胚葉、中胚葉、外胚葉という、緻密な様々な器官を発生させたのか、神によらなければ不可解な謎である。医者は、その人体の器官の存在事実には、又、ある程度の発生メカニズムについては、理解し、説明を試みることは出来るかもしれない。しかし、その全容については、医者の理解の、医者の知識の限界にとどまる。それを解明するのは、人間の創造、人体の創造をし、それを発生させた、全能の神の存在を無視して、この問題の解決を得ることは出来ない1)。

 1)創世記1の27

 人間の知情意

 人間は感情の生物であると言われるが、感情の他にも、知性と意志を持っているのが、私たち人間である。これらの情緒は、どのような働きをしているのであろうか。そのことに関して、鳥取大学の新福尚武教授は、このように解説している。「本書では便宜上、知情意の分類に従う。しかし決して精神は知情意の機能から成るというのではない。知情意の面に分けて記述しようというのである。それぞれの内容、特質は次のようになる。1)知=知的機能、何かについて知るはたらき。2)情=感情、何かを知ることによって引き起こされる自分自身の変化。3)意=欲動、意志何かに対するはたらきかけ。いずれの間にも密接な関係があるが、とくに情と意との間には密接な関係があるので、しばしば情意として一括される。知情意のうちいずれかを根本的と考えるかによって主知主義、主情主義、主意主義になる。」1)。

 1)新福尚武、『新精神医学』、(医学出版社)、P26

このように、人間には知情意の心理的要因がある。しかし、新福も言っているように、この人間の心理を、明確に知・情・意と区別することは困難である。人間にはこの知情意が、密接に深く関わり、結合して、働いて人間そのものを、形成しているからである。又、人間には、この知情意のバランスがなかなかよく保持されない。この三つの機能が、そのときの人間の言動によって、一方に傾斜しやすい。即ち、知情意のコントロールが難しいのである。

 以上のように人間について、観察してきて分かるように、人間は複雑で、繊細で、神秘的な存在である。その人間について、痛みの問題を考えていくとき、この痛みの問題も、奥の深い課題である。人間は一生涯痛みに犯され、痛みと戦わなければならない。しかし、最近医学の進歩に伴い、肉体の痛みを和らげ、痛みが克服されるようになって来た。痛みに対する研究が進み、その治療が成功した結果である。

 病気による痛み

 普通、私たちは、病気によって様々な痛みを感じるわけであるが、それをどう理解するのか。そのことについて、木下安子は、このように述べている。「体のどこか具合が悪いとき、痛みとして自覚される場合が多い。いたみは病気を診断する上に重要な症状の一つである。病気によって、そのいたむ場所、いたみの程度もいろいろである。」1)。私たちは、経験上、病気によって生じる痛みについては、ある程度理解しているし、体験的に知っている。何故なら、体の具合が悪くなると、様々な痛みを自覚し、病気の症状を経験する。そして、医者の世話になる。又、医者にとって、痛みは病気、病状を診断するために、重要な要素の一つだからである。痛みには、頭痛、腹痛、胸痛、神経全般などに症状が見られる。又心理的な症状も見られる。そのような痛みに対して、医者は医療行為を行う。

 1)木下安子、『看護学及び実習』、(全国社会福祉協議会)、P58

 無痛人間

 人間にとって痛みは、とても苦痛なものである。それ故、痛みを感じさせなくなると言うことは、とても魅力的なことである。そのことに関して、医科大学精神科の丸田俊彦教授は、こう語っている。「ヒトが痛みを感じない-つまり無痛人間になったとしたらどうでしょう。『痛みを感じないに越したことはない』と思われる方も多いのではないでしょうか。それが実現すれば、歯を抜いてもらったり、手術を受けても、麻酔の必要はありません。麻酔が切れた後も鎮痛剤はいらない。それに何よりも、痛みに対する不安や恐怖を覚えないですみます。その意味で、『痛みを感じないこと』はとても便利で、快適です。」1)。私たち人間にとって、痛みは不安と恐怖の対象である。そして、私たち人間の歴史は、この肉体的痛みからの解放を願って、様々な科学的、非科学的な試みが、なされて来た。又、その痛みを除去するために戦って来た。しかし、その試みと戦いは、無惨にも、敗北してしまった。だから反対に、この無痛と言うことに、人間たちはあこがれを抱いた。

 1)丸田俊彦、『痛みの心理学』、(中央公論社刊)、P3

 しかし痛みは、逆に人間にとって、重要な要素なのである。そのことについて、更に、丸田は、「アメリカの疼痛学者は、スターンバックも指摘しているとおり、先天的に痛み知覚が欠損している患者さんは、痛みが、ヒトに限らず、全ての動物にとって、いかに重要であるかを物語る生きた承認です。」1)と書いている。痛みがないと言うことは、人間にとって快適な気分であるかも知れないが、しかし反面、人間にとって、それは非常に危険なことなのである。丸田は、そのような症例2)を掲げて、無痛であることの危険さについて警告している。むしろ人間は、痛みを感じることによって、様々な危険から守られ、助けられている。だから痛みを感じると言うことは、人間にとってとても重要なことである。むしろ痛みの感覚が、欠損していることの方が、不安と恐怖の対象になる。

 1)丸田俊彦、『痛みの心理学』、(中央公論社刊)、P4

 2)同上PP4ー5にモントリオールのマックギール大学の学生だったC嬢の無痛の詳しい症例を述べている。

 痛みとは何か

 痛みは、人間にとって不可分な要素であり、日常経験する出来事である。では痛みの実態とは、何であろうか。その事について、更に、丸田は、こう言っている。「痛みは、生存に不可欠な知覚です。痛みに鈍感なのはともかく、痛みを全く感じないとすれば、どんなに注意深く生きても体のあちこちに支障をきたします。幸い、痛覚が正常であれば、痛みが意識にのぼるかのぼらないかにかかわらず、体はそれを察知します。そして、体位や姿勢の変化によって、体を機械的損傷から守ってくれます。」1)。

 1)丸田俊彦、『痛みの心理学』、(中央公論社刊)、PP5-6

痛みは人間にとって、生きていく上でのシグナルである。又、痛みは、人間が生きていることの証である。痛みの知覚が失われたときに、人間の生存は危ぶまれ、人間の活動が止まり、死への接近が始まる。しかし、痛みの感覚が正常であるという事は、人間を様々な障害から守り、救ってくれる。このように人間には、痛みを通して、自然に病気や、損傷に対する適切な防衛反応が働いて、人間の体が守られている。

 痛みの定義

 痛みとは何か。痛みをどのように捕らえて、痛みの実態を述べるのは、きわめて困難であると言われている。では痛みを、どう考えればよいのであろうか。その事に関して、丸田は、適切にこう述べている。「こう考えてくると、こく自然な日常会話の一部である痛みという言葉を、ここでもう一度定義する必要がありそうです。アメリカの疼痛学者スターンバックは痛みを次のように定義しています。痛みは、(1)パーソナル(個人的)でプライベート(私的)な痛いという感覚(知覚)、(2)組織の損傷が切迫しているかすでに進行しつつあることを告げる有害な刺激、(3)有機体を損傷から守るための反応パターン、などに関連した抽象概念である。」1)。

 1)丸田俊彦、『痛みの心理学』、(中央公論社刊)、PP6ー7

痛みというのは、なかなか実態を把握できないが具体的概念である。しかし、痛みは、人間の感覚の壁にその触手を触れ、実際的に有害な刺激を与え、痛いという感覚を伝導し、人間の体を損傷から守るための反応パターンを持っている。このような重要な現象によって、人間の有機体的な肉体は、痛みという感覚、刺激、損傷から保護されている。更に、痛みの定義について、丸田は、金田一京助から引用して、こう述べている。「金田一京助の『新明解国語辞典』によれば、痛みは、『打たれたり切られたり、からだの内部に故障があったりして、がまん出来ないほどに苦しいこと』と定義されています。この定義によれば、痛み知覚は『がまん出来ないほど苦しいこと』であり、その原因(刺激)として、『打たれたり切られたり、からだの内部に故障が有ったり』があげられています。」1)。

 1)丸田俊彦、『痛みの心理学』、(中央公論社刊)、P7

私たち人間にとって肉体的痛みは1)、トゲが指先に刺さったような小さな痛みでも、頭のテッペンから、足の指先まで、痛みが走るという、痛みの感覚を感じる。ですから、痛みはがまんの限界を超えたほどの苦しみ、がまんできないほど苦しいという、感覚をもたらすものである。それは、体の内外部に打ち傷、切り傷という、損傷をもたらして、人間の肉体に苦痛を与えることであり、又、人間の体の内外部にダメージや故障をもたらす。

 1)心と魂の痛みについて、ダビデはこう言っている。「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨骨は疲れはてました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」(詩篇32の3-4)

 体験としての痛み

 では痛みは、人間の日常生活の中で、どのように感じているのであろうか。即ち、体験的に、どう知覚されているのであろうか。その事に関して、丸田は、「痛みは『いたい』という主観的な知覚体験であり、その感覚を、相手に、完全な形で伝えることはできません。・・・その意味で痛みは、永久に個人的で私的、そしてユニークな体験であり、共有することはおろか、完全な形で相手に伝達することすらできない体験です。」1)と言っている。痛みは、人間にとって、個人自身にもたらす私的経験であるので、他人には知覚もされないし、その痛みの事実も理解されない。その意味で、痛みは個人の孤独な体験である。自分がどんなに痛みを知覚していても、相手にその知覚を伝達することが不可能なのである。そういう観点から、痛みは、きわめて、独特的で、類い希な、ユニークな個人体験である。又、痛みは「いたい」と言う単純な言葉であるが、その痛みの内容、状態を的確に表現するのに、困難を感じる。

 1)丸田俊彦、『痛みの心理学』、(中央公論社刊)、P9

 反応としての痛み

 人間が、痛みを知覚した時、どのような反応を示すのであろうか。様々な反応が見られる。丸田は、こう書いている。「痛みの刺激が与えられると、有機体(ヒト)は、一連の反応を示します。その反応は、やけどをして手を、裸足でガラスを踏み足を引っ込めるといった反射的なものから、叫ぶ、泣く、体をねじる、傷口を押さえるといった半分反射的なもの、そして、状況を説明する、助けを求める、医者に行く、仕事を休むといった随意的なものまで、さまざまです。こうした痛みに対する反応が、相手への痛み知覚の伝達を果たします。もし、こうした反応を全然示さない人がいたとすれば、その人の痛み知覚は、永久に、相手には伝わりません。」1)。

 1)丸田俊彦、『痛みの心理学』、(中央公論社刊)、P11

人間にとって、痛みに遭遇すると、動物よりも、敏感で、複雑な、そして緻密な反応を示す。その痛みの刺激に度合いによって、体全体で現す反射的なものから、手足という体の部分によって現す、又、言動によって現す半分反射的なものなどである。そして、その痛みの刺激の結果は、他人に対する助けの希求となって、救いを求める。これは個人の痛みを和らげるための、人間の本能的な言動である。このようにして人間は、自らの痛みを他人に理解させ、救いの手を期待させる。そうでなければ、他人に自分の痛みを知ってもらう機会を逸脱してしまう。

 体の自由を奪う痛み

 次に痛みは、人間の体に関して挑戦して来る。人間の体の損傷やダメージは人間の体の自由にヒビを打ち込み、その自由を盗んで痛みを与える。その事に関して、丸田は、強調してこう言っている。「対人関係の見通しが、この身体時股間を中心にして決まる人の場合、痛みは、意志と情動を支配し、体の自由を奪う侵略者としてとらえられます。『言うことを聞かない体』は自分の体のような気がしませんし、自分の意志では『どうしょうもない』。つい、沈んだ気分に『させられて』しまいます。こうした人の場合、体験の目に見える側面(行動として現れる部分)だけが強調され、痛みの訴えも、現象の記述に終始しがちです。」1)。痛みは体の自由を根絶する。自分の体が自由にならない。自分の手足が不自由になり、自分の行動の範囲が狭められ、自分の行動との戦いになる。そればかりか、痛みは、その人間の意志と感情を支配し、その人間を自由に操り、その人間の意志を疲弊させ、狼狽させてしまう。更に、その人間の感情に悲しみを混入させ、その人間を失格者に育て上げる。実に痛みのもたらす実害は、戦慄そのものである。

 痛みとパーソナリティ

 痛みは、その人間のパーソナリティ2)(人格)に影響を与え、その人のパーソナリティを変えてしまう。

 1)丸田俊彦、『痛みの心理学』、(中央公論社刊)、PP48ー49

 2)パーソナリティとは個性、人格。個々人のもっている総合的特性を意味する。

その事について、丸田は、このように言っている。「ではそのパーソナリティが、痛みに対する反応とどう関係してくるのでしょう。それは、同じ痛みでも、パーソナリティによって、その痛みの持つ意味あいが違ってくるからです。もっと正確に言えば『持続性と恒常性を持つ行動パターンを生むのがパーソナリティ構造で、その構造(物の見方、人生に対する見通し)の違いが、痛み刺激解釈の違いを生む』と言えましょう。」1)。

 1)丸田俊彦、『痛みの心理学』、(中央公論社刊)、PP131ー132

心の痛みにおそわれた人間のパーソナリティによって、それぞれ痛みの捉え方が違ってくる。同じ痛みでも、その人の持っているパーソナリティの幅や度量が異なるので、その痛みの解釈も十人十色である。その人のパーソナリティの構造、即ち、その人の思考方法、又思考の変遷、思考の濃度によって、当然痛みに対する解釈(理解)が違ってくる。更に痛みの持続性によって、その人の痛み感覚が、その人のパーソナリティに与える影響も違ってくる。更に、痛みの恒常性に関して、痛みが一時的(短時間)なのか、それとも常時的(長時間)なのかによって、痛み刺激に関する解釈にも違いが見えてくる。

 肉体の痛みのいやし

 人間の痛みは、いやしがたいものなのであろうか。又、人間にとって、痛みから解放されたいという思いは、万人の願いである。まして死に至る病に犯された場合、嘆きと涙と、叫びをもって、その人の人生を終えると言うことは、不幸の極みである。

 しかし、痛みから解放されるという喜びの福音の訪れがある。イエスは病によって倒れ、当然大きな痛みによって、死に至った人々をいやされた、復活させられた例を、聖書の中に見ることができる。その例を以下に掲げてみる。(1)ラザロの死からの復活(痛みからの解放)。イエスは死者ラザロに向かって、叫ばれたことが記されている。「そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼等に言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』」1)。(2)次に、ヤイロと言う会堂(教会)の管理者のいとけない娘が重病の結果、死の床についた。その娘をイエスは死よりよみがえらせた。イエスはこのようにされた。「しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。『子どもよ。起きなさい。』すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。」2)。

 1)ヨハネ伝11の43ー44

 2)ルカ伝8の54ー55

(3)更に、イエスは一人のやもめの息子の死に対して、驚くべき、このようなこともされた。「そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい。』と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い、始めたので、イエスは彼を母親に返された。」1)。このようにイエスは、死という一般的には、いやしが不可能な病に対して、死者を生かすという、いやしをなされた。であるから、人間は痛みから解放されることが可能であり、病はいやされる。それは一つには最近、痛みに対する医学的進歩による。もう一つの福音は聖書が痛みのいやしを強調していることである2)。

 1)ルカ伝7の14ー15

 2)ヤコブ書5の16

 いやしの保証

 痛みは取り去られ、病はいやされると言うことに関して、神は保証しているし、又約束している。それは神のみことばに従い、神に対する信仰をしっかり持ち、信仰による祈りをささげるなら神はいやしをもって答えて下さる。以下の聖書の言葉はそのことを教えている。

 (1)「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」1)。

 (2)「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また病人に手を置けば病人はいやされます。」2)。

 (3)「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」3)。

 1)出エジプト記15の26

 2)マルコ16の17

 3)ヤコブ書5の15