第3節 魂の痛み
人間の痛みについて、肉の痛み、心の痛みと見てきたわけであるが、更にもう一つ、一般的には、あまり考えられてない問題であるが、魂の痛み(霊的痛み)について、最後的に考えてみたい。
プラトンの魂思考
プラトンは、人間の魂と言うことについて、どのように考えていたのであろうか。それに関して、元高校教師のヨースタイン・ゴルデルはこう書いている。「プラトンは考えをもっと先まで進めた。魂はぼくたちの体に降りてくる前にすでにあった、と考えたんだ。魂はかってイデア界に住んでいた。けれども魂は、人間の体に宿って目を覚ましたとたんに、完全なイデアを忘れてしまった。それから何かが起こる。そう、驚くようななりゆきが始まるんだ。人間が自然のなかにさまざまな形を見ると、魂の中におぼろげな思い出が浮かび上がってくる。」1)。プラトンによれば、人間の魂は肉体以前に存在していたと主張している。それでは、魂が人間の体に宿る前には、どこに存在していたのか。それについてはイデア界(永遠の世界)にいたと言っている。そのイデア界から、人間の肉体に内住して、目を覚ましたと語っている。しかし、プラトンには魂そのものについて、十分な理解があったとは考えがたい。魂の問題は、神との関係をはずして考えることは、不可能であるからである2)。
魂という言葉
魂と言うことについて、明確に理解がもてないのが一般的な傾向である。逆に言うと、
1)ヨースタイン・ゴルデル、池田香代子訳、『ソフィーの世界』、(日本放送出版協会)、P119
2)箴言16の2、伝道12の7
プラトンは、神については、その実在と神に対する信仰は、持ち合わせていなかったので、それ以上、魂の問題を深めることはできなかった。魂というものは、とても深い奥義を持っているだけでなく、人間にとって大きな存在である。それ故、その実態を理解するのは、不可能かも知れない。しかし、私たち人間には魂の実在があり、人間は、それを実感している。では、魂とは1)一体何なのであろうか。
1)魂(Soul)とは身体を与えられている。またはかつて与えられていた霊(Sprit)である(黙示録6の9)。魂(ヘブル ネフェシュ、ギリシャ プシュケー)とは動物的生命の原理で、それには理解力と感情と感受性がある。人間も動物も等しくこれを持っている。
その事に関して、フリーメソジスト桜ヶ丘教会の牧師野田秀は、こう述べている。「聖書の中には、この<たましい>という言葉はしばしば出ていますが、一般的には、あまり親しみやすい言葉ではないでしょう。聖書に出てくる<たましい>という言葉は、どんな意味で使われているかを整理してみますと、大きく三種類に分けられると思います。(一)は、私たちの肉体と対比して、『人間は肉体だけの存在ではない』という意味でいわれる場合です。(二)は、もっと平易な意味の、私たちが、普通<心>とか<精神>とかいう言葉で言っている世界です。<大和魂>などと言われて表現されているもの、あるいは、気持ちとか感情とかいうものを含めて、それを<たましい>という言葉で言い表されている場合です。(三)に、いちばん大事かと思いますが、私たちがこの神様との関わりにおいての存在であることを言い表す場合に<たましい>という言葉が使われるのです。これは非常に大切なことです。<たましい>と言うと、何か<ひとだま>とか<霊魂>というような言葉のイメージがありますが、聖書が<たましい>という言葉を使った時には、これは神というお方と私というひとりの人間との関わりの中で使われていることを忘れてはなりません。」1)。
1)野田秀、『ひとり神の前に』、(フリーメソジスト桜ヶ丘教会出版委員会)、PP96ー97
魂という言葉は、特に聖書や、神様との関わりを持たない人間にとっては、余りなじみのない言葉であり、魂と言うことに知識のないのが普通である。それと一般的に、魂という言葉は、心とか精神、何か特別な霊という意味に理解されているのが一般的である。別言するならば、普通人間にとっては、あまり魂には関心がないというのが、普通なのである。魂という問題は、私たち人間が、神様との関係を持った時に、関心が喚起されることとである。そして、人間は自分の魂に興味を持ち、自分の魂のことを、深刻に考え始める。そして、この魂の問題は、私たち人間にとって、きわめて重大で、関心度の高い問題であることが自覚される。
魂の状態
死に望んだ時の魂の状態について、創世記にはこう書かれている。「彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき、」1)。
1)創世記35の18
これはヤコブの妻ラケルが、ベテルを旅だって、エフラテに行く途上で、彼女は産気づいて、ひどい陣痛で苦しんで、子供ベニヤミンを産んで彼女は死の床についた。ラケルがその死に臨んだときの彼女の魂の状態が、「そのたましいが離れ去ろうとするとき」と表現されている。人間の魂は、死という状態に遭遇するとき、魂は肉体から離別していく。そして肉体はちりに帰り、魂は神のもとに帰っていく。又、これは、肉体が苦しみから解放された状態を描写している絵である。
創世記の35の18の「たましい」という言葉を注釈して、もと単立浜田山キリスト教会牧師舟喜信は、こう述べている。「<たましい>(へ ネフェシュ)。『たましいが離れ・・・』は肉体とたましいを別々に考える二言論ではない。へ ネフェシュの多様な意味のうち、ここでは『いのちの原理』である。『最後の息を引き取ろうとするとき(新改訳)』の意で、『死に臨み』と同義。」1)。
1)舟喜信、『新聖書注解(創世記)』、(いのちのことば社)、P226
人間の肉体は魂を宿している。神は土のどろで人間を創造し、鼻の穴から生命のいき(魂)を吹き入れた1)。そして、人間は生きた者となった。であるから、二元論者が、考えるように、肉体と霊、魂を別々に考えるのは誤った考えである。そして、「たましいが離れ」るということは、死を意味している。
神はイスラエルの民に、神の律法を遵守させるために、命令して、こう言われた。「あなたがたは、私のことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。」2)。
1)創世記35の18
2)申命記2の7
ここでは、神は神の律法(神の意志)を忘れないように記憶させるために、心とたましいに、彫刻のように、しっかりと刻み込むように命令されている。魂に刻むと言うことは、単なる思想として、脳に記憶すると言うことでなく、魂の壁に消すことのできない傷跡として、残すと言うことである。このことによって、神のことばが、人間を様々な危機から救うことができる。であるから、心と魂に神のことばが刻み込まれると言うことは、人間にとってとても重要なことである。
人間の魂は失望しやすく、又、衰えやすいのである。であるから、常に勇気づけていかなければならない。その事に関して、パラクは、このように歌っている。「キション川は彼らを押し流した。昔からの川、キションの川。私のたましいよ。力強く進め。」1)。
1)士師記5の21
バラクはキション川の大河の流れが、怒濤の如く、彼に向かって勢いよく流れてくる。これは一つの比喩的表現である。バラクには、彼の時代の勢力が、大河のように、怒濤のように、激しく波立って、恐ろしいほどの勢いで、彼に押し迫り、彼を川底に引っ張り込もうとしている。そんな中で、彼は自らの魂を勇気づけ、自らの魂に活を入れている。そして、神の助けを願っている。ですから、これはバラクの祈りであり、神への叫びである。当然そこには、神の助けの手が伸ばされる。
魂の働き
人間の魂は、様々な面において、とても重要で、幸いな働きをしている。その事について、神学博士である佐藤陽二は、次のように言っている。「魂の働きは五つあげることが出来る。第一は、愛すること。第二は、思いつくこと。第三は、ひらめくこと。第四は、夢を見ること。第五は、良心の働きをすることである。そして、この魂の中に人間がいると言ってよい。・・・・・・潜在意識も顕在意識も、その働きの基礎は、魂にある。ところが、すべての人の魂の現状は、『罪を犯す魂は死ぬ』(エゼキエル書18章20)と言う言葉によって言いつくされている。罪のないイエス・キリストの魂は、十字架にかかり、罪ある人間の魂をあがなわれた。主イエスが十字架において、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てに成ったのですか』(マタイ27章46、イザヤ53章12b参照)と叫ばれたのは、人間の罪のあがないのためであった。その出来事を自分の魂の罪のあがないのためであったと信じた時に、その人は『信仰の結果なるたましいの救いを得ている』(ペテロ第一、1章9)」1)。
1)「えくれしあ」第9号(1994年)、P1
人間の魂は、人間の情緒に関係し、人間の思想を深めることに関係を持ち、又、人間のアイデアを産み出すことに関与する。そして更に、人間に希望的観測を抱かせる。そして、人間の良心に、善悪の判断の機能を与える。それ故、人間の魂は、コンピューターにたとえれば、CPU(頭脳)の役割を果たしている。人間の魂には、潜在意識と顕在意識が、車の両輪のように調和して、より正確に機能して、人間に大いなる祝福をもたらしている。それに、最も幸いな事に、私たち罪ある人間の魂は、罪のないイエスの魂の働きによって、十字架という罪の贖いの働きによって、栄光ある救いへの切符を手にした。
魂の衰え
私たち人間は、しばしば魂の衰えや弱さに遭遇する。そうして、その結果、魂は疲れて倒れてしまう。ヨナという人物は、こう言っている。「私のたましいが、私のうちに衰え果てた時に」(ヨナ書2の7a)。この言葉はどういう事を意味しているのであろうか。その事について野田は、こう書いている。「まず、その一つに、一般的な意味で、私たちかが自分の気持ちであるとか、或いは心が弱ることをいいます。詩篇を読みますと、このような心の状態を、さまざまな言葉で表現しております。たとえば、『たましいが塵についている。』『自分のたましいが塵に打ち伏している。』というような言葉をよく使っています。あるいは、『たましいが、うなだれる。』とも言っております。」1)。
1)野田秀、『ひとり神の前に』、(フリーメソジスト桜ヶ丘教会出版委員会)、P100
私たち人間の魂は、様々な日常の事象や事件や問題によって、魂がふるわれ、揺さぶられ、打ち倒されることによって、魂は疲れ、弱り、衰えていく。本当に私たちの魂は、強そうに見えているが、実際は弱く、すぐにうなだれてしまう。特に数多くの試練に遭遇した時に、人間の魂はぼろぼろに破れ、再起不能のような状態にまで落ち込んでしまう。そして徐々に、その魂は、老人のように老け込んで、若さを失い、気力もなくなり、二度と往年のような若さを、取り戻すことは出来なくなる。これが魂の衰えの兆候であり、しるしである。この魂の衰えから回復させ、生気を与えるのは神であり、人間の力や努力によっては不可能である。
魂の衰える原因は、もう一つ別の側面から考える必要がある。その事に関して、野田の言葉を引用するなら、彼はこうも言っている。「しかしその二は、それだけでなく、たましいは神様との関わりにおいてのことであると言いましたが、神様との関わりの希薄さ、それがいいがげんになってしまう状態、これがたましいの衰え果てるということの、より大切な世界なのです。」1)。私たちの魂は、自分や他人との関わりだけでは、魂の弱さや衰えを修復することは出来ない。ここは人間以上のお方、神との関わりがなくてはならない必要事なのである。神との関わり(関係)を持たないことの故に、魂の問題が発生してくる。神と立ち向かわない人間は、神の中にとけ込んでいかない人間は、その魂にポッカリと大きな穴があいて、そこから様々な異質の、苦しい問題が入り込み、その魂を悩ませ、苦しめ、痛みを認知させる。そしてその結果、人間は自らを暗い、深い、闇の中へ自分を沈み込ませ、破滅の縁へ引きずり寄せてしまう。
1)野田秀、『ひとり神の前に』、(フリーメソジスト桜ヶ丘教会出版委員会)、P101
現実的な痛み
人間そのものの中心の痛みは架空のものではなく、現実的な痛みである。それは、人間そのものに現実的に迫り、襲ってくるものである。その事に関して、ルイスはこう語っている。「わたしは痛みが痛くないといっているのではありません。痛みは痛むものです。痛みとはまさに現実の苦痛を意味するのです。わたしはただ『苦難を通して全うされる』という古くからのキリスト教の考えかたは決して信じられぬものではないということを示そうとしているに過ぎません。それが人の口に合うものだと証明しようなどとは、さらさら意図していないのです。」1)。
1)C.S.ルイス、中村好子訳、『痛みの問題』、(新教出版社)、PP135-136
私たち人間は、自分の魂に迫ってくる痛みに対して、目を閉じず、現実的な痛みとして捕らえて、正直に、率直に対向しなければならない。そして、魂に痛みは痛みとして伝わる。それを我慢したり、幻想化しては成らない。問題は、その痛みをどう処置するかという事である。「苦難を通して全うされる」(テオロギア・ゲルマニカの言葉)という言葉にもあるように、苦難、苦痛によって、魂の痛みを克服することが出来る。又、魂の痛みが痛みとして認識される時に、その痛みの処方への道も、自ずから開かれる。
魂の痛みへの原則
痛みに対して、それを体験していると、その痛みに対する防衛反応、即ち、それをどのように受け止め、どのように対応していけばよいかという事が、分かってくる。その対応に対して、ルイスは、このように書いている。「『苦難を通して全うされる』という考えが信じられるものかどうかということをおしはかるにあたっては、二つの原則を守ることが必要です。まずわたしたちは、痛みのこの現実の瞬間というものは、恐れと同情という外苑をもっている苦しみの体系の中心に過ぎないということを銘記する必要があります。しかしこうした経験が何らかよい結果を生むとすれば、それは一にかかってその中心によるものです。ですから、たとえ痛み自体に精神的な価値がないとしても、恐れと同情にそうした価値があるならば、恐れられ、同情される何ものかが存在するように、痛みもまた存在しなければならないでしょう。」1)。魂の痛みは、人間に、常に不安と恐れをもたらすという事は、前に見てきたように、肉体的にも、心理的にも同じである。しかし魂の痛みは、その両者よりももっと深刻で、深層的な痛みの問題を提供するものである。苦痛の耐え難い環境にあって、人間は救いの手を待望し、期待する。であるから、痛みがあるという事は、その人間にとって、幸いなのである。それに痛みの持っている価値は、その痛みによって、人間そのもの幅を掘り下げる。その痛みという苦痛によって、他人に対する同情と悲しみを理性的に、体験的に認識させる。
1)C.S.ルイス、中村好子訳、『痛みの問題』、(新教出版社)、P136
それと共に他人に同情し、他人を哀れみ、他人を助けたいという願望を持たせるからである。その結果、人間は成長し、人格的な発展を、自らの中に産み出していく。
更に、魂の痛みについて、ルイスは、痛みはあらゆる分野において、影響を与えるものであると言っている。そして、彼はこのように言っている。「第二に、痛みそのもの--多岐にわたる苦しみの全体系の中心をなす--を考えるとき、わたしたちは自分が知っていることに集中し、単なる想像に過ぎぬ事については、あれこれ憶測をめぐらさないように心すべきでしょう。」1)。
1)C.S.ルイス、中村好子訳、『痛みの問題』、(新教出版社)、P138
魂の痛みが、あまりにも複雑なため、私たち人間の理解の範囲が限定されるために、十分に魂の痛みの程度や実態を把握するのが困難である。また、魂の痛みは、私たちの体験的な知識で思考し、推測しようと試みるため、どうしても痛みの全体的な実像を捕らえることが出来ない。それで、痛みの部分的な面での理解で納得してしまうため、痛みの事実を見失ってしまうのである。
魂の痛みの証拠
では、魂の痛みを、どのように理解し、捕らえればよいのであろうか。どこに、その確固たる証拠を模索すればよいのであろうか。その事について、ルイスは、こう述べている。「人間についても、自分たちの知っている例にのみ、証拠を求むべきでしょう。ある小説家や詩人は、苦しみを悪い影響ばかりおよぼすものとして、苦しむ者のうちにあらゆる種類の悪意や残虐性を産むもの、またそれを正当化するものとして、描く傾向があります。」1)。
1)C.S.ルイス、中村好子訳、『痛みの問題』、(新教出版社)、P138
魂の痛みについて、人間は自分の知っている範囲や部分にのみ、証拠を求めてしまうので、その痛みの何であるかを捕らえることが出来なくなってしまう。また、しばしば人間は、魂の痛みを罪悪として考え、捕らえる傾向があるため、痛みを正しく捕らえることが出来ない。しかし痛みは、私たち人間を、自分を真摯に考え、この痛みによって、自分のあり方を考える絶好の転機の時なのである。ある詩人は痛みに耐えかねて、絶叫して、こう神に呼びかけている。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて、渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」1)。このように、私たち人間は、魂の痛みのために、のたうち回っている。そして、神にお会いするまで、その痛みは止まらない。神によって、初めて、その痛みからいやされ、解放される2)。
1)詩篇42の1-2
2)第一テモテ1の15