第2章 イエスの痛み
第1節 肉体的痛み
イエスは肉体的な面でも、様々な痛み(苦痛)を受けられた1)。神の子であるイエスなのに、大変おいたわしいことである。当時のイエスに批判的であったパリサイ人を初め、数多くのユダヤ人、そして、異邦人による肉体的な痛みを、受けられた。そのイエスの肉体的痛みについて、考えていく。
受難告知
イエスの痛み(苦難)は、すでに予告されていた2)。この事は、私たち人間を救うために、どうしても、神の子イエスが通らなければならなかったことなのである3)。
1)ルカ伝24の46
2)イザヤ書53の7
3)マタイ伝16の21
その事に関して、ポッダムの宮廷付き牧師であったF・W・クルムマッハーは、こう言っている。「救い主の受難の物語は、いまその血潮したたる神秘と恐ろしい身代わりの光景を、私たちの前に展開しようとしている。『世の罪を取り除く神の小羊』は、燔祭の祭壇に近づく。縄目、むち、いばらの冠、そして十字架がはるかに見えている。十字架上でイエスが言われた七つのことばは、サタンの王国の葬りの鐘のように、また罪深い人類に自由と喜びを告げ知らせるように、私たちの耳に響いている。」1)。イエスの苦痛(痛み)は、常に血潮が伴っている。しかも、その苦痛はご自身の罪によって生じたものでなく、神に命令されたものであり2)、ひいては、私たち人間を、罪とサタンの手から救い出すための苦痛であった3)。
1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P8
2)マタイ伝20の28
3)ルカ伝1の74
そして、あらゆる肉体的な苦痛、縄目、むち、いばらの冠、究極的には十字架という恐ろしい、極度の苦しみを受けられた。
しかも、この肉体的苦痛は、イエスが弟子達に、必ず受けるべき苦痛であると予告したものであった。その事に関して、クルムマッハーは、こう言っている。「主はその口を開き、弟子たちの驚きのうちに、ご自身がまもなく受けようとしている苦悩と、そのあとに続く勝利とを、簡明なことばで告知された。主は言われる、『見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について予言者たちがしるしたことはすべて成就するであろう。』」1)。
1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P9
この世に於いて、私たち人間は自分の生涯を見通し、その生涯の結末を予言することなどは不可能である。まして自分の受ける苦痛について予言する、否予言したくないのが普通であろう。しかしイエスは、ご自分の苦痛を予言された1)。しかも、それは苦痛で終わるのではなく、その後に、勝利が追いかけてくると、断言された2)。そして、このイエスの苦痛の予言は、イエスの最後のご生涯で、実現されるである。イエスは、ご自分の苦痛は、単に覚悟されていたのではなく、それは神に対して、神のために喜んで、受けられたことであった3)。
1)マタイ伝16の21
2)コリント前書15の54,57
3)マタイ伝26の42
その事に関して、クルムマッハは、更にこう述べている。「主の御顔は、エルサレムへ向けられた。私たちはすでに、その目的のなんであるかを知っている。主は苦しみを受けて死のうとされている。主の受難には、何か非常に重要な事が関係しているに違いない。それは神のみもとを離れ、地上に来られた使命を果たすことの危機のように見える。」1)。イエスの受けられた苦痛は、イエスにとっては使命であり、回避できない使命であった2)。これは神のご計画を遂行し、成就するためであり、もう一方では、私たち人間のために、欠かすことの出来ない必要事であった。そしてイエスは喜んで、覚悟されていた事実だった。
イエスに対する暴力行為
イエスは、実際的に暴力的な行為によって、肉体的に苦痛を体験された。聖書記者マタイは、その事に関して、こう言っている。「そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また他の者たちは、イエスを平手で打って、」3)。
1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P11
2)ルカ伝22の42
3)マタイ伝26の67
この記事を読むと、なんと主イエス・キリストに対して、これらの人々は恐ろしいことをなしている。イエスの顔につばをかける、もし自分にそのようなことをされたなら、狂わんばかりに、怒りを現すことであろう。又、こぶしで頭を殴りつけている。イエスは非常な痛みを覚えたことと思う、しかし、イエスはその痛みに耐え、ののしらず沈黙を保っておられた。又、ある者は、恥知らずにも、主イエスに大副びんたを食らわしている。この事とにたいしても、イエスは口を引き締めて、歯をかみしめて、人々のなすがままにさせておられた。何と、この人々は主イエスに対する、愚かで、非人情的な暴挙をなした。これは主イエスに対する、罪深い暴力行為である。このマタイ伝26の67を黒崎幸吉は、こう註解している。「神を涜す者はあらゆる侮辱に逢ふも尚足らない。但し彼ら(大祭司、長老、群衆)は之によりて神を侮辱して居ったのである事を常に念頭に置くべきである。」1)。
1)黒崎幸吉、『註解新約聖書(マタイ伝)』、(立花書房)、P225
神を敬わない者は、いつも侮辱的な行為に出て、人を傷つける。だから、イエスに対しても同じような行動をとって、イエスを侮辱し、恥知らずな言動に及んでいる。彼らの思いと言動は、やがて自らも同じように、他人から侮辱され、自らを滅びの人生に導入していく。又、聖書記者ルカは、別の角度から、イエスの肉体的苦痛について、こう記している。「人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打って殺します。」1)。イエスは肉体的に苦痛を受けただけでなく、心理的に、霊的に苦痛を受けられた2)。即ち、ユダヤ人はイエスをあざけり、辱めた上で、つばをかけ、むち打って、それから十字架で殺した。
1)ルカ伝18の32
2)マタイ伝27の46
いばらの冠
又,特別にイエスは、肉体的な面で苦痛を強いられている。その顕著な面で、いばらの冠を強制的にかぶらされている。その事について、スコットランドの神学者である、ジェームズ・M・ストーカーは、こう述べている。「彼らは、イエスを王であると思っているかのように扱った。王様には紫の衣が必要だ、というわけで、そこらに投げ捨ててあった古びた紫の上着を拾って来て、肩にかけてやった。次に王様には王冠がなくてはというので、彼らのひとりが官邸の建っている一帯へ走って行って、そこにあった木か、やぶから、二、三本小枝をもいで来た。これにたまたまとげがついていたけれども、そんなことはどうでもよかったし、むしろそのほうが、かえって好都合であった。それを編んで何とか怪しげな王冠らしいものに仕上げて、彼の頭に押しつけた。最後の仕上げとして王様には笏尺がいる。これも難なく見つかり、たぶん杖に使うものであろう、一本の葦を右手に持たせた。こうしてからかいの王様の着付けがすんだ。」1)。イエスはカヤパの官邸の庭に植えられていた、いばらの木から、数本の枝が切り取られて、それで編まれた、粗末ないばらの王冠を彼の頭に押しつけた2)。それはどう見ても、王様の気品ある王冠とは思われなかった。
1)ジェームズ・M・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P89
2)イエスの頭に載せられた「いばらの冠」は伝承によれば、zieyphus spinaを持って編まれたとされ、1-3mの高さに成長する灌木で、長くて鋭い、反り返ったとげを持つ。
しかしこのいばらの冠は、それを実行した者たちには、単なる残虐な遊びにしか過ぎなかったが、主イエスを慕うもの、愛する者たちには、特別な影響を与えた。その事について、ストーカーは、このように描写している。この場面のいろいろな面の中で、キリスト教徒たちの想像力に最も深い印象を与えたところのものは、いばらの冠である。これはたしかに異常なことであり、その残忍さが、いかに手のこんだものであり、気ままかってなものであったかを物語っている。そのうえ、とげによる傷をわれわれが感じたりするようなとき、受難の主の苦しみは、何にもまして、われわれの胸に迫る。しかし、この冠がキリスト信者の心をとらえたのは、主としてその象徴によってであった。」1)。
1)ジェームズ・M・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、PP93-94
イエスがかぶせられたいばらの冠は、その情景を見るものに対して、特にイエスを信じ、愛している者には、大きな打撃を与え、心の痛みを与える。いばらの冠を頭に無理矢理にかぶせられた時、イエスの頭に受けた痛み、それはまさに、その痛みは、体全体に痛みの感覚が走った。その痛みは、キリストを信じる者の目に、その残忍さと戦慄の残像を印象づけた。そしてあたかも、そのいばらの冠の痛みが、自らにも襲ってきて、耐えられない痛みを共有してしまう。それほどに、イエスのいばらの冠の苦痛は、私たちに、愛する者の胸に強く迫ってくる。いばらの冠はイエスの頭から鮮血を流れ出させ、その血はイエスの御顔に流れ、イエスの御顔を真っ赤に染めた。何とお痛わしいことであったことか。
このように、いばらの冠は残虐な残像を、私たち人間に深く印象づける者であるが、しかし反面、又、別な印象をも与える。その事に関して、ストーカーは、次のように記している。「しかし、今われわれが彼のいばらの冠のことを思うとき、ただ恐怖と同情を感じるのみならず、喜びを押さえがたいというのはどうしたことか。それは、兵士らの愚弄は残忍であったけれども、彼らの行為には、神のよしとされる一面があったからである。神の智恵は、彼らの罪を通じてすら、その意図を遂げたのである。」1)。
1)ジェームズ・M・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P94
不思議なことである。イエスになされたいばらの冠の刑は、イエスに与えられた苦痛の一つであり、それは残酷なものであり、その場に臨場している者にとって、見るに耐え難いものであり、目を覆ってしまいたいと思うほど、恐怖を喚起するものである。しかし、もう一方では、このイエスのいばらの冠は、イエスを信ずる者には、悲しみの中にも喜びを与えてくれる。それは、このいばらの冠は、神の暗黙の了解であり、神の意志的ご計画の中に取り込まれていた大切な要素であったからである1)。即ち、神の意図であった。このイエスのいばらの冠の苦痛によって、神は私たちを愛し、私たちを救うために、神がなされた愛の業であった2)。
1)マルコ伝15の17から推測すると、イエスはこれを拒まなかったことは、イエスは神の意志に従われたのである。
2)ヨハネ第一の手紙3の16
このイエスのいばらの冠の痛みを、私たちが直接的に見ることによって、その痛みの痛さを感じることによって、イエスが、私たち人間に代わって、私たちの罪の痛みを肩代わりして下さった、ということが分かる1)。そして、私たち人間は、イエスの愛の広さ、長さ2)、深さの如何に大きいかという事が分かる。その事を聖書記者ヨハネは、このように言っている。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信ずる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」3)。神はイエス・キリストを犠牲として、それも私たち人間を愛するがために、イエスを犠牲として、私たちを愛して下さった。だから、いばらの冠は、イエスの犠牲の一つの痛みの証拠(証詞)なのである。
1)ペテロ前書3の18
2)エペソ書3の17-18
3)ヨハネ伝3の16
むち打ち
イエスに執行された、処刑のむごたらしく、残酷なものの、もう一つはむち打ちである。これは肉体に受ける苦痛の、まさに地獄的苦しみである。その事に関して、ストーカーは、次のように書いている。「最初彼らはむちで打った。これは、ローマの兵士たちが、自分の主人たるビラトの命令によって行った。最も、総督は、たぶん、このリンチが加えられているときは、その場から退いていたのであろう。これはどうやら、裁判の行われた壇の上で、衆人監視のうちに行われたらしい。犠牲者は衣服をはがされて、柱にくくりつけられ、あるいは、低い柱にもたれさせられ、手は縛られて、身を守るべき手段は奪われた。拷問の道具は、一種のむち、あるいは九本のなわのむちのようなもので、とげの先端に鉄製ないし骨制の釘がついていた。これで打たれると皮膚が切れて、血が吹き出すばかりでなく、刑を加えられている途中で犠牲者が死ぬことも珍しくなかった。」1)。
1)ジェームズ・M・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P87
このむち打ちの刑も、言葉やペンで表現できないほどの苦痛をもたらす、残虐な行為である。人前で公然と行われる刑罰であるため、まず受刑者に非常な恥ずかしさをなめさせる。衣服をはぎ取られ、背中をむき出しにされ、その背中に絶えられないほどの、強打を浴びる。このむち打ちは、規則により、40を越えてはならないと規定されている1)。その理由は40を越えると、その受刑者を死に追いやるからである。しかし、そのむちの一打ち、一打ちが、まさに死に匹敵する痛みである。イエスはこの一打ち、一打ちの痛みに耐えられて、39回のむち打ちを受けられた。
1)神命記25の2-3
このむち打ちの刑が、どんなにひどいものであるか、多少、読者は認識されたと思うが、これは未だ、ほんの一部分を紹介したに過ぎない。これがどんなにひどいものであったかを、克明に描写しているものがある。それは、クルムマッハーであるが、彼は、このむち打ちについてリーアルに描写している。「野卑で残忍な彼らの顔つきと、手にした拷問の道具を見よ。それは先端に、鋭い骨のかぎや、先のとがった物をつけ多数百本の皮ひもでできているむちである。これが、神がその目のひとみのように愛された主に対して備えられた責め道具なのである。これを見て私たちが、主がこれほどまでに身を落とされることはありえず、またあるべきではないと考え、天は全力をあげてこれを妨げなければならない、もしそうしなければこの世はその下に滅ぼされてしまうだろう、と考えるのは当然であろう。しかし、そのことが起こったとき、天はなんの手も下されず、世も滅び去ることはなかった。」1)。
1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P212
イエスの受けたむちは、人間の受ける拷問としては、最もむごく、残忍な処刑道具である。それはむちの先端に、鋭利な骨のかぎ、これは動物の骨か人骨であったかは定かでないが、その骨を削って鋭くした物であり1)、又先のとがったものである。
1)ローマ人が用いた刑具は、数本の革ひもに金属片や骨などがついた構造になっており、それらが肉に食い込み、ひどい苦痛を与えた。(新聖書辞典、いのちのことば刊)
それは金属か、小石を削って作ったものであろう。それを数百本の皮ひもに取り付ける。これで打たれなくとも、単になでつけられるだけでも、皮膚の柔らかい背中には多大の傷跡を残すに違いない。それが頑強で、野卑で残忍な兵士に打ち付けられるから、そのむちはイエスの背中に食い込み、背中の皮膚を破り、背中の肉をちぎり取る。そして、背中を真っ赤に血で染める。そのむちの一打ち、一打ちが、耐えられない痛みを加え、卒倒しそうな、否、死を招き寄せるような苦痛をイエスに与え続けた。これは人の目にも、そのむち打ちを熟視するにはあまりにも、むごたらしいものであった。まして、イエスの父である神は目に涙を一杯に貯めて、神ご自身もイエスと共に、その痛みに耐えておられたことと思われる。しかし、力ある神は、このイエスのむち打ちを黙認されたのであろうか。これも又、私たち人間のためであった。当然、私たち人間が受けるべきむち打ちの刑罰を、ご自分の子であるイエスに身代わりさせ、私たち人間を、この苦痛から救って下さった1)。
イエスの弱り切った体、このむち打ちの前には、早朝から、あちらこちらに引き回され、又、簡単な裁判で、刑罰が処断された2)。その間、イエスは食事も取らず、前日のゲッセマネでの徹夜での祈りによって、心身の疲労を覚えて居られた3)。そういう事情の中で、むち打ちの刑が執行されたから、イエスの背中は青白く、弱っていた。そこに打ち下ろされたむちの一打は、激しく、強く、イエスを苦しめた。
1)ペテロ前書3の18
2)マタイ伝26の63-66
3)マタイ伝26の40-41,43-45
槍で突いた傷
この槍で突かれたことは、直接的には、イエスの痛みには関係を持たないが、間接的には、重要な意味を持っている。イエスの槍で突かれたことについて、クルムマッハーは、このように述べている。「総督は、彼らの要求を認めることをためらわず、同時に他の衛兵を処刑場に送って、犯罪人たちの足を折り、彼らがほんとうに死んだかどうかを確認させることにした。十字架にかけられた者の死期を早めるために彼らの足の骨を鉄棒で打ち砕き、ついで胸にとどめを刺すことは、慈悲ある行為と考えられていた。ふたりの犯罪人の足の骨は折られたが、主イエスの番がきたとき、主はすでに死んでおられることが明白だったので、その足を折ることは不必要であると思われた。特にひとりの兵卒が槍でイエスの脇を突き刺したので、たとえ受難の主がなお生きておられたとしても、その一撃で十分にとどめを刺されたことであろう。」1)。このように、イエスに加えられた槍の一撃は、イエスの死に加えられた一撃であって、イエスの肉体的痛みには直接的には関係していないが、もう少し私たちの目を疑視して行くならば、イエスの肉体的痛みに関わることを発見する。一兵卒がイエスの右脇腹から心臓に一撃を加えたとき、心臓に槍を突き刺した時に、イエスの心臓から流れ出たものがある。その事について、弟子のヨハネは、こう記している。「しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出てきた。」2)。
1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、PP335-336
2)ヨハネ伝19の34
大変重要なことは、イエスの心臓から「血と水が出てきた」ということである。血が流れてくるということは、当然の事実であるが、「水」も流れ出てきたことである。医者の証言によれば、心臓に水がたまる原因は、非常な苦痛を心身に受けた場合に、そのようになるとのことである。そうであるならば、イエスは耐え難い苦痛を心身に受け、非常な苦しみを受けられた。しかも、このえにも言われぬ苦痛は、私たちを苦しめ、悩ませる罪から救うために、私たち人間に代わって苦しみを進んで受けて下さった。このイエスの苦しみの故に、私たち人間は、罪から解放されることが可能になった1)。
1)コロサイ1の20