第2節 心理的痛み

 ここでは、イエスの心理的な痛みについて考えてみたい。イエスの心理的な痛みについて考察して、どのように、イエスが苦しんだかを見ていきたい。その一つ一つを考察しながら、イエスの苦痛を偲んでみたい。

 悪魔による誘惑

 イエスは悪魔から、激しく、厳しく誘惑を受けられている。あのアダムとイヴを誘惑して、エデンの園から奈落の底と思われる地へ、突き落とした、あの悪魔が、イエスに接近して来て、大胆にも、ふとどきにも、イエスを誘惑した。その時のイエスの状況について、マタイ伝の記者であるマタイは、このように述べている。「そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると試みる者が近づいて来て言った。」1)。

 1)マタイ伝4の2ー3

イエスが悪魔の誘惑を受けたのは、40日40夜断食を受けたあとで、空腹を感じていた時であった。この時は、イエスは心身に共に疲れて、くたくたになっていた時である。そのようなイエスの弱さという転機を狙って、悪魔はこうかつに、イエスの心理的弱点を攻撃して、イエスを悪のどん底に突き落として、堕落させて、人々の前に、イエスの信頼を無能にしようとした、悪魔の奸計であった。

 この所を18世紀の偉大な説教者であった、ジョン・ウェスレーは、次のように註解している。「『断食をされたので』、これによって、彼は、疑いなく、神から一そう豊かな霊的力を受けた。『そのあと空腹になられた』、かくて、第一の誘惑の準備ができた。『やってきて』、目に見える姿で、多分、人間の姿で、イエスがメシヤである証明をもっと調べたいと思っている人間のように。」1)。

 1)ジョン・ウェスレー、松本卓夫・小黒薫訳、『ウェスレー著作集第一巻新約聖書註解上』、(ウェスレー著作集刊行会)、P20

普通人間は断食によって、肉体が弱ることによって、心理的にも弱ってしまう。しかし、イエスは断食によって、たしかに肉体は弱ったが、イエスの場合、断食は祈りのための断食であったので、イエスは断食によって、霊的な力を受けられた。そして、悪魔の誘惑に立ち向かった。こうしてイエスは、悪魔の第一の誘惑である物質的誘惑に勝利し、第二の誘惑である名声欲にも勝利し、第三の誘惑である権力欲にも勝たれた。しかし、イエスは事実、三つの悪魔の試練によって、心理的苦痛をなめられたと言うことも真実である。

 パリサイ人による批難

 イエスは、多くの人々の人気と評判を受けていくと共に、反面、パリサイ人、学者、長老たちより、露骨で、痛めつけるような批判、非難をも多く受けるようになった。その中で、パリサイ人たちからの非難は、イエスに痛々しいほどの、激しいものであった。しかも大勢の人々の前で、辱められたり、試みられたりして、イエスを攻撃し、迫害した。このような仕打ちによって、イエスは心理的に、多大の苦痛をなめさせられた。その例について少し考えてみよう。

 第一に、イエスがある人の家で食事をしているとき、その様子を見て、パリサイ人たちはイエスを非難している。「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、収税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。『なぜあなたがたの先生は、収税人や罪人といっしょに食事するのですか。』」1)。イエスは、特に当時のユダヤ人社会から蔑視され、村八分的な取り扱いを受けていた、収税人や罪人、娼婦という気の毒な人々に同情し、愛をもってお取り扱いをしていた。このときも、これらの人々と一緒に食事をしていたのを、パリサイ人はとげのある目で、イエスの行為に対して、過激な批判をしている。

 1)マタイ伝9の11

このような気の毒な人々を哀れまなければならないのに、パリサイ人たちは非人情的なことをしている。非難されなければならないのは、パリサイ人たち、彼ら自身の方である。

 第二に、イエスがおしの霊につかれた人から、悪霊を追い出されたことに関して、パリサイ人たちは、そのイエスのなされた善行に対して、激しく非難している。「しかし、パリサイ人たちは、『彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。』と言った。」1)。イエスがなされたことに関して、甚だしい冒涜的な発言をしている。このパリサイ人たちの心中には、イエスに対するねたみの心が存在していて、素直にイエスのなされた行為を喜ぶことができないばかりか、とんでもない言葉で、イエスを非難攻撃し、イエスに心理的な痛みを与えている。パリサイ人たちのねじれ曲がった、露骨で、悪意のこもった性質を見る。

 1)マタイ伝9の34

 第三に、弟子たちが安息日(現代の日曜日に当たる)にしたことに対して、イエスを非難している。「そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。『ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。』」1)。

 1)マタイ伝12の2

パリサイ人たちは、ユダヤ人たちの日常生活の中に、数多くの律法(規則)を作って、自分たちの生活を守っていた。その中の一つに安息日(日曜日)に、どんな小さな労働もしてはならない、という規則があった。弟子たちが安息日にした、「穂を摘んで食べる」という行為が、ユダヤ人の規則に抵触したので、イエスを非難した。パリサイ人たちの考えは、人間よりも規則を重要視するという、本末転倒的な発想によって、人を裁き、人を批難していた。このパリサイ人たちの批難行為は、イエスの心に打撃的な痛みを与えて、イエスを苦しめた1)。

 第四に、パリサイ人たちは、言葉巧みに、イエスを試み、テストしている。彼らは狡猾で、意地が悪く、卑劣な態度で、イエスをひどく試している。例えば、「しるしを見せていただきたいのです。」(マタイ12:38)、「天からのしるし」(マタイ16:1)、「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」(マタイ19:3)、という風に難問を突きつけて、イエスを困らせようとした。その事に関して、マタイは、このように述べている。「そのころ、パリサイ人たちは、出て来て、どのようにイエスをことばのわなにかけようかと相談した。」2)。

 1)マタイ伝12の7

 2)同上22の15

何と汚く、非人道的なパリサイ人たちの姿を見て、吐き気をもようす者である。このようにパリサイ人たちは、イエスを心理的に、ますます深く傷つけて、イエスに苦痛の深みに引きずり込んでいった。

 第五に、パリサイ人たちは、イエスに不当な態度をとっている。彼らは自分たちの思うようにならないと、常にそのような態度で、イエスにいつもとる態度である。「その時、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。『パリサイ人たちが、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。』」1)。

 1)マタイ伝15の12

このような態度も、イエスに不快感と心理的な痛みを与えている。パリサイ人たちは、いつでも不遜な態度で人々に接しており、自分たちが無視されたり、主役の場からはずされたりしていたなら、すぐに腹を立てる。このときも、イエスに彼らは偽善者呼ばわりされたことに対して、大いに腹を立てた。しかし、実際的にイエスは、パリサイ人の真実な姿を暴露した。その真実の姿を暴かれたことに対する、怒りと腹だたちさを、イエスにぶちまけている。

 第六に、パリサイ人たちは、イエスに対する恐ろしく、危険な言動を表明している。殺意に満ちた言動である。「パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。」1)。

 1)マタイ伝12の14

パリサイ人たちは、自分に気にくわない者とか、自分たちに刃向かう者とか、敵対する者たちに対して、相手を拒絶したり、迫害したり、その人の社会的地位を剥奪したりした。しかし、イエスに対しては、滅ぼそうと言う恐ろしい企てをした。何と卑劣で、恐ろしい人間である。このような人間が、ユダヤ社会の指導者とし、ユダヤ社会である程度尊敬されていたとは、ユダヤ人も、非常な認識不足な輩である。さらにパリサイ人たちは、もっと悪いことに、イエスに対して、悪い企みをしようとしていたことがあった。それは、「そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。」1)。パリサイ人の殺人計画である。ユダヤの人々に律法を教え、彼らの道徳教育を実践していた教師パリサイ人たちが、その律法に反する、絶対にしてはならない、尊い人間の生命を奪うという、律法に反することをしようとしているから、非常な驚きである。まさに教師として失格である。人の生命の尊さを教える立場の者が、残忍にも、人(イエス)の生命を奪おうと言うのである。

 1)マルコ伝3の6

 第七に、そして最後に、パリサイ人たちは、イエスが自分たちの手に余ると考えたとき、彼らの悪賢い智恵は、このような結論を導き出した。そりは、「パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして、役人たちを遣わした。」1)。パリサイ人たちは、自分たちの手ではどうすることもできない、イエスに手出しができないと判断すると、今度は役人の手によって、イエスを捕らえて、始末しようと思った。このように、パリサイ人たちの行為は、全く恥さらしの言動である。しかしイエスは、パリサイ人たちのこのような奸計にも、恐れず、適切に対処された。むしろ、この事を私たち人間に、イエスと同じ立場に置かれたとき、イエスのように冷静に行動するように模範を残された2)。

 1)ヨハネ伝7の32

 2)イエスはあらゆる行動において冷静に行動された。そして、我々にこう言っている。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14の1)

 パリサイ人の与えた心理的痛み

 パリサイ人達は、折りあらばイエスを非難して、イエスに打撃を与えようと虎視眈々と狙っていた。それがイエスにとっては心的痛みとなっていた。

 パリサイ人達は、イエスが収税人や罪人と食事を一緒にしているところを見て、非難している1)。又、弟子達が安息日にしてはならないことを見て、それを取り立てて言いがかりをつけている2)。それに、イエスを困惑させようとして、しるしを見せよとイエスに迫っている3)。特にパリサイ人達の悪意的な傾向として、イエスをことばの罠に陥れようと相談をしている4)。それに又、イエスの真実な証言に対してそれを受け入れず、イエスの証言を否定している5)。それに、しばしばイエスを捕らえるために役人達を遣わしている6)。

 1)マタイ伝9の11

 2)同上12の2

 3)同上12の38、16の1

 4)同上22の15

 5)同上8の13

 6)ヨハネ伝7の32

 このようにイエスはしばしばパリサイ人達によって、嫌がらせをされ、悪意のこもった敵対を受けられた。このようなことによって、イエスは心的な痛みを覚えられた。

 ナザレでの拒絶

 イエスはご自分の生まれ故郷で、ナザレの人々に拒否されている。その事をマタイはこのように記している。「こうして、彼らはイエスにつまづいた。しかし、イエスは彼らに言われた。『予言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。』」1)。

 1)マタイ伝13の57

イエスは多くの人々に歓迎され、祝福されたのに、ご自分の郷里の人々はイエスを歓迎しなかったし、祝福しなかった。これは大変奇妙なことである。イエスはナザレで成長し、そこの人々によく知られていた。そして、ナザレの人々も、イエスのなされた偉大な事業と、数々のイエスの評判を聞いていたはずである。しかし、イエスを受け入れなかった。普通ならば、自分たちの郷里の人間が、大いなる人として来たならば、喜んで受け入れる。しかし、ナザレの人々は、イエスの過去に捕らわれて、彼は大工の息子で、自分たちはイエスの母親や、兄弟たち、妹たちのこともよく知っている、だから、イエスの行った不思議な力と、智恵を信ずることはできないと言って、イエスをしりぞけたである。実に不信仰なやからであり、心の狭い人々である。この事によって、この人々は、イエスの心を痛めつけた。

 ラザロの死

 イエスはベタニヤの二人姉妹と弟、マルタとマリヤとラザロを愛して居られた。しかし、その愛するラザロが重病に陥り、危篤状態になり、遂に死の床に着いてしまった。しかしイエスは、故意にベタニヤ行きを遅らせて、ラザロの死の四日後に現地に赴かれた。そして二人の姉妹、マルタとマリヤの深い悲しみをご覧になって、いたく心を痛み、悲しまれた。その事を、ヨハネは簡潔にこう述べている。「イエスは涙を流された。」1)。この事について、村瀬俊夫は、このように註解している。「イエスはラザロの墓に向かうとき、目に涙をうかべ、心に激しい苦悩を味わわれた。しかし、それは神の力によってラザロを死の力から解放し、<神の栄光>を表すための苦悩であった。」2)。

 1)ヨハネ伝11の35

 2)村瀬俊夫、『ヨハネの福音書』、(いのちのことば社)、P232

イエスが目に涙を浮かべられると言う、人間以上の愛の現れを見る。ここにイエスの心理的な苦悩をかいま見る。しかしこの涙は、死人ラザロを死から復活させるという、神の栄光を現すための苦悩であった。こうして、ラザロを死から復活の生命によみがえらせて、イエスは人々と神の前に大いなる喜びと祝福をもたらした。ラザロの死は一時的に、イエスに苦痛を与えたが、それは二倍の天的喜びを、イエス自身にも経験させたすばらしい出来事であった1)。

 イエスの裁判

 イエスは正式な裁判の手続きを踏まず、秘かに、不当な裁判を受けられた2)。

 1)ヨハネ伝11の41

 2)マタイ伝26の59-60

この事は、イエスにとって非常な心理的な痛手を与えている。まず前の大祭司でカヤパの舅であり、年老いたアンナスの前に引き出されて、審問を受けられた。このアンナスという人物が、どのような人であるかについて、クルムマッハーは、次のように述べている。「こうして主は、最初の裁判官の前に立たれた。この裁判官は、『枯れ果てて』神の真理から離れ、人生に起こる最も陳腐な事がらで満足し、最も高貴な者をただの見せ物としか扱わず、その額にありありと呪いの刻印を押された仲間のひとりである。確かにイスラエルの聖名である主にとって、気高い感情の一片も持ち合わせない人の手に渡されることは、決して小さな苦難ではなかったであろう。実際には大祭司ではないのに、この白髪の罪人がわがもの顔に栄光の主に対して横柄な態度でふるまっているのを思ってもみよ。しかし、イエスは忍び続け、ご自身に与えられたありとあらゆる侮蔑に耐えられた。」1)。この老身の元大祭司は、イエスを軽蔑の眼で見、意地の悪い審問をもって、イエスを問いただした。更にそばに立っていた役人もイエスに難癖を付け、平手でイエスを殴った2)。又、実に愚にもつたない言葉をもって、イエスに質問を浴びかけさせた。しかし、イエスは、このような取り扱いにも忍耐され、苦痛に耐えられていた。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P114

 2)ヨハネ伝18の22

 アンナスは、具体的にイエスを審問し始めた1)。

アンナスのイエスに対する質問は、偏見と歪曲され、脚色された質問によってなされた2)。そこには、イエスを嫌い、イエスをよく思っていない態度がありありと露見している。だからありもしない審問をでっち上げ、間違いなく罪人に仕立て上げてしまった。イエスに十分に弁明する余地を提供することなく、一方的に断罪してしまった。まさに極悪非道なやり方である。そこには公正な法の番人としての、少しの片鱗も見られない。ここでの立場は、聖なる、栄光に満ちたイエスとアンナスが、逆転している絵を見る。しかし、イエスは、このような不正な、苦痛に満ちた取り扱いを甘んじてお受けになっている。

 1)ヨハネ伝18の19

 2))クルムマッハーはアンナスの悪意的な事情聴取と偏見に満ちた尋問がなされたことを描写している。F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P115

 次にイエスは、ビラトの前に引き出されて、そこでビラとの裁判を受ける1)。ユダヤの人々(サンヘドリンの議員たち)は、未だイエスが正当な裁判で有罪と確定されていないにも関わらず、イエスを囚人として取り扱い、罪人としてピラトの官邸に、イエスを強制連行していった2)。

 1)ヨハネ伝18の28-32

 2)クルムマッハーはイエスがビラトのもとえ連行されていく様子を描写している。F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、PP160ー161

たとえ、罪人であったとしても、それ相当の人間的扱いをするのが、世の常であるのに、イエスは乱暴に、荒々しく、重罪人の取り扱いを受けている。まるで汚れた人間を扱うようにである。次にピラトは、イエスが自分のもとに送られてきたことに対して、疑問をもった。その事に関して、クルムマッハーは、こう述べている。「ピラトはすぐ、ユダヤ人が未決囚を門から押し込んだのはなぜか、と疑ってみた。しかし、彼はそれほど感情を害されなかったので無関心を装い、ユダヤ人が来た理由を確かめようとして、尊大ぶって彼らの方に進み寄った。彼は心の偏狭なユダヤ人だけを相手にしなければならないことを思い、彼らの偏見に寛大であることが自分の品位と尊厳を保つことになるのだと考えた。」1)。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P163

ピラトは最初、イエスが自分のところに送られたことに関して、疑問視していた。しかし、そのうちに事情が分かってくると、これは大した問題でないと思った。それで、無関心を装い、一応ユダヤ人に対して、イエスを連行してきた理由を問いただそうとして、ユダヤ人たちに、自分の権威を比肩させるために、尊大な態度で彼らに臨んだ。そして、この心の狭いユダヤ人たちに対して、ピラトは、いかにも、ユダヤ人たちに味方し、彼らに対して、彼らの性急で、誤った行動に対しても、ピラトが大いに寛容であることを提示した。そして、ピラトは今度は、ユダヤ人のイエスに対する訴えの、なんであるかを問いただす1)。ピラトはユダヤ人に、イエスに対する刑罰に関して、問いつめていくうちに、ユダヤ人が考えているような罪を犯していない、という結論に達した2)。ピラト自身は、ユダヤ人たちよりも、ずっと公正で、偏見のない立場から、イエスの訴状に対して、それを熟視し、公正に判断できたからである。であるから、イエスに対する罪状を問うことはできないと、判断していた。

 1)ヨハネ伝18の29

 2)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P163を参照。

 しかし、ピラトはこの件に関して、できるだけ、関知せず、自分の責任下で、裁判することを嫌った。しかし、非道にもピラトは、イエスの無罪を確信しているにも関わらず、自分の責任を回避するために、ユダヤ人の律法で解決するように、イエスをユダヤ人の手に渡してしまう。しかし、ピラトの恐れは自分が裁判に関わるなら、無罪と信じていても、いつ逆転して、有罪に変わるとも限らないからである。その時にその罪人の血が、ピラト自身にも飛血してこないとも限らないからである。その事に関する責任転嫁の逃れの道備えをしておいた。何と公正な法の施行者として、恥ずべき行為である。そしてピラトは、最後的に、この問題から逃避しようと企てた1)。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、PP164ー165を参照

ピラトは、この忌まわしいユダヤ人のイエスに関する提訴から逃げようとしたが、ユダヤ人の巧みな策略にはまり、そこから逃げることもできず、結局は、イエスを裁いてしまうことになる。そして、ユダヤ人にイエスを十字架につけさせると言う、最悪の事態を招いてしまう。この事によって、ピラトはイエスの血を自ら手にベットリと塗り込んでしまい、いくら水で洗っても、その潔白さを証明しようとして、イエスの血をぬぐい去ることはできなかった。ピラトも、イエスを十字架に、ユダヤ人と共に荷担した罪人として、彼は一生涯苦しみ続けて、自分の生涯を終えた1)。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、PP165ー166を参照

 ピラトは自分の審問が終わると、ちょうど折良くエルサレムに滞在していたヘロデのもとに、イエスを送り出した。それは、イエスはガリラヤ人であるので、ヘロデの支配下にある者だから、ヘロデのもとで審問を受けた方がよいと、ピラトは自分の責任をヘロデに転化した。又、イエスに対するヘロデの反応を知りたかった事由も考えられる。このヘロデはイエスに対して、どのように取り扱ったかを、クルムマッハーは、次のように述べている。「堕落しきってあらゆるよい感情を失っていたこの放蕩者のところに、イエスは引かれて行った。それは、主が恥辱と拒絶を受けられるためであり、また、主が立たれたことのない法廷をなくするためであった。心を毒された祭司やパリサイ人の一団が荒々しい叫び声とともにガリラヤの領主の家に着くと、ヘロデは、時ならぬ群衆の現れた理由を聞いてから、民の指導者たちに犯罪者を連れて来るように命じた。イエスは黙ったまま厳粛に領主のもとに近づいた。福音記者が伝えるように、『ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ。それは、かねてイエスのことを聞いていたので、あってみたいと長いあいだ思っていたし、又イエスが何か奇跡を行うのを見たいと望んでいたからである。』」1)。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、PP188ー189

ヘロデのところへ連行されてきたイエスは、このユダヤの愚とんで、腐れきった心の持ち主である、領主の前に引き吊り出された。しかしヘロデは、イエスの裁判にはなんの興味も関心も持ち合わせていなかった。ただ、イエスという人物に以前から、会見してみたいという願望を持っていたに過ぎなかった。それも、イエスの高貴で、清潔な人格者であり、人望の高い人間性のあるイエスに会いたいと、思っていたのでなく、イエスの奇跡を見たいという、単なる欲望という動機からであった1)。そうしてヘロデは、イエスに問いかけ始めた。

 ヘロデのイエスに対する質問は、愚かなばかばかしい問いかけであり、イエスがなんのとがで、ユダヤ人から訴えられたのかという肝心な点について、審問していない。もっとよく調査して、訴え状を出させて、調べるのが筋である。イエスはそのことをよく認識していたので、ヘロデの愚かで、意味のない審問には、沈黙を守って、一言も言葉を発せられなかった2)。

 1)ルカ伝23の8

 2)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P189を参照

これは賢明な行動であり、正当な態度であった。ヘロデは自分の審問が空しく返ってきたのを見て、今度は、イエスを苦しめる行為に出た。

 愚鈍なヘロデは、イエスの沈黙の意味を悟らず、自らの軽薄さを披露して、イエスをののしり、軽蔑し、侮辱している。又、ヘロデと共に彼の従僕たちも、ヘロデと同じ愚かさを披見させて、イエスを愚弄している1)。この事によって、イエスは深く、心理的な痛手を受けたことは事実である。しかし、イエスはこのような残忍な暴言と揶揄に対して、耐えている。ヘロデのかくも過酷な、猜疑心に満ちた言動に耐えられたイエスは、外面的にも、内面的にも多大の犠牲的な苦難を授受された2)。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、PP189-190を参照

 2)同上P191を参照

これは言語に言い尽くすことのできない苦難である。しかし、主は黙ってこの苦痛に耐え忍ばれた。しかも、この苦痛は、イエスご自身が受けて下さることによって、当然私たち人間が受けなければならない苦痛を、代わって受けて下さった。又、イエスは、このような苦痛を受けられたのは、私たち人間に、イエスご自身が耐え忍ぶことによって、どんな苦しみにも耐え得ると言うことを、私たち人間に、ご自分の体験を持って、実際的に見せて下さった。もし耐えられないとしたならイエスが一緒に、私たちの苦痛に荷担して下さって、耐えられるように、道を備えて下さるという、ご愛の配慮をして下さった1)。

 ペテロの与えた心理的痛み

 ペテロもイエスに対して大いに心理的な痛みを与えている。

 イエスを信頼し、「私は決してつまずきません」2)と大胆に宣言したペテロがつまずいてしまった。

 1)ピリピ2の8

 2)マタイ伝26の33

このことはイエスの心に痛手を与えた。イエスを否認しないと言っていたペテロがいとも簡単に、イエスを否んでしまったことは1)、イエスに苦痛の題材を与えてしまった。又、イエスに絶対的な服従を約束していた、あのペテロが自らのことばをうち消し、自らに誓ってまでイエスを否認した2)。このことはイエスの心の壁に深い傷跡を残したことである。

 ユダの与えた心理的痛み

 ユダも又、悲しむべき事であるが、イエスに対して心理的な痛みを与えている。

 イエスを愛しているはずであるユダが、イエスを売ろうとしている3)。これはイエスの心に大きな打撃を与えてしまった。又、ユダの裏切りを知っていたイエスが、ユダに対して単刀直入に「いや、そうだ。」4)と言われたイエスの心中の痛みを覚える。

 1)マタイ伝26の35

 2)同上26の72

 3)ヨハネ伝6の71

 4)マタイ伝26の25

そして、剣や棒を手にした大勢の群衆を扇動してきたユダの姿を見られた1)、イエスの心的痛みはいかばかりであったかと思う。

 そして最後に、使徒パウロの言葉を引用して、この章の結びとする。使徒パウロはイエスの心を捕らえて、私たちにこのように励ましの言葉を与えている。「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではない。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」2)。

 1)マタイ伝26の47

 2)コリント前書10の13