第3節 霊的痛み

 次にイエスの霊的苦痛(魂の痛み)について考察して見る。特にここでは、ゲッセマネにおける苦痛の祈りと、ユダの裏切り、それにペテロのイエスの否認について、考えてみたいと思う。これらの痛みは、イエスのこの地上における生涯の中で、大きな霊的苦痛であった。

 ゲッセマネの祈り

 イエスのゲッセマネの園での祈りは、切々たるものであった1)。そのゲッセマネの園に行く途中通るケデロンの谷はうっそうとした糸杉におおわれたうすきみ悪い場所であった2)。

 1)ルカ伝22の44a

 2)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P80を参照

しかしこのケデロンの谷は歴史的な場所である。それはダビデ王が、息子アブサロムの反逆により、聖都エルサレムを脱出して、この谷を着の身着のままで、またはだしで、悲しみに打ちひしがれて通った場所である1)。そのような歴史的物語を秘めているケデロンの谷オリブ山のふもとのゲッセマネが、これからイエスの苦痛を展開させる場所である。然しイエスは、よくオリブ山のゲッセマネに行かれ、神と交わり、神と語ろう、祈りの場所であった2)。イエスは、ゆっくりとくつろぎ、心静かに休息し、神との親密な交わりと祈りによって心を豊かにせられ、心の疲れと痛みをいやされて、世の人々への救い主としての安息の働きをそこでされた。イエスにとって、このゲッセマネが、彼のあらゆる働きの力の源となっていた。然し、このたびのゲッセマネは、イエスにとって、最大の苦しみの祈りの場所になった。イエスはここで、神の御心に従われた3)。

 1)サムエル記した15の23

 2)ヨハネ伝18の1,ルカ伝22の39-40

 3)マタイ伝26の39

 次にイエスは祈り始められるが、イエスの祈りの姿を見ていると、それは大変な状態である1)。イエスのゲッセマネでの苦難の祈りは、イエスが神に促されて受けた杯(苦難)ではあったが、しかし、イエスにとって、大変な苦しみであったということは否定できない2)。イエスご自身も、その苦難を三回も過ぎ去らせて下さいと、切実に祈っている3)。できるならば、その杯を過ぎ去らせて下さいと、祈っている。その祈りの声は、大いなる叫びと涙に満ちて、時間の経過と共に、ますます激しく、強く、大きくなっていった4)。

 1)ルカ伝22の44b

 2)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、PP81-82を参照

 3)マタイ伝26の44

 4)マルコ伝14の35-36

しかし、その祈りと願いの声に、神は答えなさらず、全く聞こえないかの如く、耳を閉じて、黙しておられた。神の愛する、たった一人の御子であるイエスの祈りに耳を傾けては、下さらないかのように思われた。神がそうされた理由は、この事はイエスにとって回避してはならない重要な事実であったからである。イエスと言うより、私たち人間のために、このゲッセマネの苦闘の祈りは不可欠なものであった。イエスのこの祈りがどんなに苦痛に満ちていたものであったかを、聖書記者ルカは、このように記している。「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」1)。この聖句が言い表しているように、「汗が血のしずくのように」流れ落ちるとは、まさに死のような苦痛の伴った、祈りであったということが分かる。

 この苦闘の祈りをしているイエスに対して、弟子たちの非情な姿を見る2)。

 1)ルカ伝22の44

 2)ルカ伝22の45

特にイエスのそばにいた、三人の弟子たちの無力な姿を見ると、イエスの苦痛が幾層倍にも増量されていく。弟子たち(特にペテロ、ヤコブ、ヨハネ)は、イエスのゲッセマネでの苦悩の祈りに関しては、皆目理解していなかった1)。

 1)クルムマッハーは弟子達の姿をリアルに描写している。F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、PP82-83を参照

しかし、三年半以上も親密な交わりをイエスと持っていたならば、イエスの言動について、十分な認識と理解を有していたはずである。特にゲッセマネデでのイエスの言動について、理解しているべきである。それが全く分からず、イエスの苦悩に苦悩を加重してしまった。イエスは、特にこの三人の弟子たちに、イエスの苦悩の祈りに、側で共に祈って助けの手を差しのべてもらいたいと、思っていた。それが全然助けにならなかった。彼らは眠りこけて、イエスの心に深い悲しみと痛手を、与えることしかできなかった。イエスの切なる、弟子たちに対する嘆願をい眠りという、空しい、無力で応答している。

 主イエスが経験されたゲッセマネでの苦杯は、イエスご自身が進んで受けられた苦しみの杯であった。そのことに関して、クルムマッハーは、このように説明している。「このゲッセマネにおける神秘的な戦いを、もう少し詳しく考察してみよう。イエスが三人の弟子たちと園の中に数歩はいるなり、主は--彼らの目には--悲しみを催し、また悩みはじめられた。このことばは、かってなかった事態が主の上に起こったことを暗示している。同時に、主を襲った苦悩は適切な備えによって、主が進んで耐え忍ばれたものであることを示している。マルコは、特有の方法で恐ろしい光景を細密に描写して、主の苦悩のありさまを私たちに明らかにしている。『主はおののきはじめられた』。彼は、恐ろしい者に触れて、突然襲う、恐怖に満ちた驚きを意味することばを使っている。」1)。主イエスが進んで受けられた苦悩の祈りではあるが、イエスがここまでにたどり着くまで、前に見たように、大変な葛藤があったる。そのことを言い表しているのが、「主は恐れおののきはじめられた」2)という言葉である。主イエスにとって、やがて覆い被さってくる十字架の苦しみ、これに耐えると言うことは、並大抵のことではない3)。イエスの全身にどっしりと加重される十字架の苦痛、それを払拭するために、イエスはゲッセマネで一心不乱に祈りに打ち込まれた。この恐れに満ちた杯(十字架)の重荷に耐えうることができるように、血のような汗を流して祈られた。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P83

 2)マルコ伝14の33

 3)マルコ伝14の35

 もう少しイエスのゲッセマネでの苦しみの状態を見てみよう1)。しかし、イエスご自身の境地には、とうてい達する事はできないが、その境地により近くまで接近して、イエスの苦しみを察してみたいものである。イエスはこの苦しみに対して、弟子たちに助けの要請を投げかけたが、弟子たちは愚かにも、その要請に全然気がつかなかった2)。弟子たちは、イエスが彼らの方にふり向いた時に、イエスの顔の状態をよく見て、イエスの苦悶の状態を悟るべきであった3)。また、イエスは、彼らに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」4)と呼びかけているから、その言葉の意味とその悲しみの深層性を読めたはずである。

 1)マルコ伝14の36

 2)マタイ伝26の38,41,44

 3)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P84を参照

 4)マタイ伝26の38

「悲しみのあまり」という言葉の中に、イエスの言葉に現されぬ深くて、担いきれぬ苦痛が訴えられていることを、弟子たちは悟るべきであったのに、鈍感にも彼らは認識できなかった。「死ぬほどである」といわれた言葉の中に、イエスの心がかき破られるほど、イエスの体全体でも耐えきれないほどの、重圧的な、彼の体と心を破壊するような力が、加えられているような苦しみが、苦悩が、苦悶が覆い被さってきていた。イエスはそのような恐怖の重圧と死闘していた。まさにイエスの身が苦しみによって、死の淵のぎりぎりの境界線にまで隣接していた。だから、弟子たちの助けの手を願ったのであったが、それが得られなかった。それで、イエスは唯一人で、その苦痛の杯を飲み干された。

 次に、イエスの苦痛の祈りの内容について考えてみるべきである1)。

 1)マルコ伝14の35-36

それによって、私たちは現実的に、実際的に、真実にイエスの祈りの苦痛の実態を知ることができる。主イエスの祈りは、イエスが神の前にひざまづき嘆願の叫びを発しつつ1)、偉大なる父なる神の前に、イエスは最大の尊敬を払っているが、そのひざまづきは、奴隷のように土下座をして2)、顔を地に伏せて絶対的服従の態度を取った。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P85を参照

 2)マタイ伝26の39a

これは、絶対者である神のもとに、絶対的服従をすると言うボデーランゲジである。ご主人である方の前に、顔を上げず、唯ひれ伏して従うというサインである。そしてイエスは、おもむろに祈りだした。まずイエスは、ご自分の苦しい境地を神に申し上げた。そして可能であるなら、この苦しみの現況である、この杯(十字架)を取り除いてくださいと祈っている。こう祈った理由は、イエスは神の子であるが、また、人の子として、この世に誕生された。したがって、イエスは人間としての体と性質を持たれているため、人間としての苦痛は耐えられないほど、大変なものである。したがって、可能ならば、この苦痛を取り除いて欲しいと祈った。しかし、イエスの思い(意志)ではなく、あくまでも神の御心(意志)に従ってであると、申し添えている。それが神の命令と意志ならば、それに絶対的に従うという、服従の態度を願望している1)。

 イエスの祈りに対して、神は助けの手を差し出そうと、どんなにか願っていたと思うが、神は沈黙を保持していた。何故であろうか。神が沈黙をされたのは2)、イエスのゲッセマネでの祈りは、イエスがどうしてもとおらねばならない関門であり、神のご計画の中で不可欠な要素であったからである。

 1)マタイ伝26の39b

 2)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P86を参照

もし、ここで神がイエスの祈りに応答して、イエスを助けたなら、神のご計画は挫折し、十字架による私たち人間の救いは断念され、私たち人間は嘆きのうちに、地獄に転げ落ちて、破滅してしまう他はない。そうならないためにも、イエスのゲッセマネでの苦痛の祈りは、必要かつ不可欠なものであった。イエスにとって苦難であったが、愛する子のために神は沈黙をあえてなされた。

 そして、イエスの切なる祈りが続いた。イエスは父なる神に対座して祈り続けた。そのことを同様に、クルムマッハーは、このように言っている。「主は再び園の奥まった木陰に戻って、やや違った形で二度目の祈りを始められた、『わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように』。福音記者のひとりは、主が『ますます切に祈られた』としるしている。」1)。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P87

イエスが「この杯を飲むほかに道がないのでしたら」と祈っているのは、この十字架による救い以外に、何か別の手段がないかと模索し、考え、神のみこころを探って、祈っていた。全能の神であるから、別の手段を考えて、可能にすることができるかも知れないと、イエスは他の可能性を考えて、神に祈っていた。決して神から与えられた杯(十字架)を嫌い、これを避けようとは、全然考えてはおられなかった。その証拠に、イエスは「どうか、みこころが行われますように」と厳然と祈っておられるからである。そして神のみこころを求めて、イエスは益々熱心に祈られている。

 神は沈黙されたが、しかし神は、イエスのために愛のご配慮を忘れてはおられなかった。神は天使を遣わして、イエスを励まし、元気づけられている1)。天使は苦悩の中にあるイエスを、勇気づけ、励まし、元気づけようとして勇んで、イエスの所にやって来た2)。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P87を参照

 2)ルカ伝22の43

このまま苦難と苦悩の中に置かれているイエスは、肉体的にも、心理的にも、霊魂の面においても、衰弱してしまった。恐ろしいほどの長い緊張感に没頭しているイエスにとって、また、深い悲しみと嘆きの中に放置されているイエスにとって、これは肉体を激しく消耗していく危険な状態である。このような諸々の緊張状態から、イエスを解放しようとして、天使は遣わされた1)。しかし、この天使の心温まる、強力な慰めと励ましも、あまりにも大きく、深い苦痛の祈りのためには、いかほどの助けにもならなかった。イエスは、この孤独で、耐え難い霊的苦悩の祈りを唯お一人で祈り、勝利を収めねばならなかった。汗が血の滴り落ちるような苦痛の経験を過越て行かねばならなかった。

 1)ルカ伝22の43

 そして、ついにイエスはもだえ苦しみの祈りを通して、神のみこころに従うという結論に導かれていく。神のみこころに従うのが最善の解決となり、イエスに次のステップに立ちゆく決断を与えた1)。こうして、イエスは全身全霊によってもだえ苦しんで祈った結果、神から自分に与えられた特権、イエスにとって最初は、イエスのゲッセマネでの祈りは、神の特権と言うには、あまりにも苦痛に満ちていて、イエスの目には神の杯(十字架)の過酷な苦難のみしか映らなかった2)。しかし、イエスの祈りが神の肺腑に届き、神のみこころが見え、理解された時に、イエスにとって、神の杯が栄光の杯に変身したかのように思われ3)、それが、イエスにとって大きな神の特権に変わっていった4)。この杯はイエス以外に、受け取ることのできる人はいないと、イエスに認識させ、その使命感に奮い立たせた。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、PP89-90を参照

 2)マルコ伝14の36a

 3)マルコ伝14の36b

 4)マルコ伝14の41

 パリサイ人達の与えた霊的痛み

 パリサイ人達は不必要にイエスを攻撃し、イエスの魂を試み、イエスに霊的な痛みを与えている。

 パリサイ人達は、イエスに対して悪霊を使って悪霊を追い出している。何故ならイエスは悪霊のかしらだからであると、イエスに対して冒涜的な表現を用いて非難している1)。又、パリサイ人達はイエスを憎悪していたので、どのようにイエスを滅ぼそうかとしばしば相談していた2)。それにパリサイ人達は、イエスのみことばに対して腹を立てていて、それをよく思わず拒絶していた3)。更に、イエスに対する嫌がらせをして、しばしば彼らはイエスを試みて、イエスを困らせていた4)。

 1)マタイ伝9の34,12の24

 2)同上12の14

 3)同上15の12

 4)同上19の3

 このようにイエスはパリサイ人達の意地の悪い巧妙な悪意によって、イエスの魂は痛みを覚えられていたのである。

 ユダの裏切り

 ユダの裏切りは、主イエスの魂にとつて、どんなに深い悲しみと痛みを与えたことであったかと、推察するものである1)。ユダの裏切りの経緯について、順を追って見ていく。

 ユダが生まれた時、彼は「神への賛美」という意味のユダと命名された2)。彼の両親はこのユダが、常時神を礼拝し、心から神を賛美する者となって欲しいという願望を、この子に持った3)。そのような麗しい名の持った子として、ユダはこの世に誕生した。

 1)ルカ伝22の48

 2)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P50を参照

 3)ギリシャ語で「ユダ」は賛美という意味がある。

 又、ユダに対する評価であるが、最大の悪評が着せられている1)。麗しい誕生をしたユダが、生涯の終わりに受けた褒賞は極悪人の評価であった2)。まさに、その人の評価は、人生の結末に証拠立てられる者である。ユダはまさに、自分の生涯を悪の汚名をまとって、その生涯を閉じた。

 1)マタイ伝27の3-5,ヨハネ伝17の12

 2)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P51を参照

 では何故に、そのような悪の汚名をかぶるという、ユダの悲劇が始まったのであろうか。そのことを考えてみたい。クルムマッハーは、そのことの始まりについて、こう語っている。「イエスに仕えていたときには、彼は偽善者ではなく、少なくともそのことは自覚してはいなかった。そののち、彼が祈り、神のみことばを学び、それを他の弟子たちとともに述べ伝えるようになったとき、彼はある程度の誠実さをもってそれをした。しかし結局のところ、彼は自ら進んで欺きと偽善に走ったのである。」1)。最初彼は、イエスの弟子になった時、他の弟子たちと変わりなく、イエスに仕えていた。イエスの教えを聞き、それを学び、又、その教えを他者に伝え、神のことばを教えていた2)。しかし、そのような平凡な弟子としての修養中に、ほんの小さな罪が進入してきて3)、それを放置して、怠惰にしていたとき、その罪は彼の心の中で、欺きと偽善の根が生じ、芽を出して、やがてその刈り取りをしてしまった。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、PP51-52を参照

 2)マルコ伝6の12

 3)ヨハネ伝12の6

そして、更にユダの心情をよく見ていくと、罪に誘われていく経緯が分かる。ユダにとって、悪への誘いへの根は、金銭という、単純な物欲ではあるが、しかし、その虜になると、それは恐ろしい魔物であって、その毒牙からは容易に抜け出せない、という曲者である。ユダはそのような魅惑的に見える物欲から、奈落の崖ぶちに引き寄せられていった1)。

 それでは何故に、ユダはこのような罪悪に引導されたのであろうか2)。その悪の動機について、考えてみる必要がある。ユダの悪への動機は、主イエスからゆだねられていた金銭のつまみ食いから始まっていた3)。彼は最初、自らの良心の高鳴る音に気を使い、恐れていたが、それが度重なると、もはや良心の歯止めはとりはなたれ、心のブレーキが利かなくなったいった。こうして、金銭の着服は数学的に金額が膨らんでいった4)。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P52を参照

 2)ユダは悪魔に誘われていた。(ヨハネ伝13の27)

 3)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P53を参照

 4)ヨハネ伝12の6

そして、この罪悪が習慣的になり、彼の良心が麻痺し、罪悪への感覚が薄れていってしまった。

 又、このユダの罪悪は、主イエスよりおしかりを受けたことに根底が置かれていた1)。

主イエスはユダが犯した罪に対して、愛を持って正そうとされたが2)、罪に陥っていたユダには、聞く耳を持たなかった。その主イエスの親切とユダに対する思いを、逆に逆恨みをして、復讐の怨念に持っていってしまう3)。何とユダの心の狭さと、恩知らずで、恥知らずの言動を見る。ここに人間の信仰によらない感情の危険性をかいま見るのである。

 しかし、イエスは何とかして、このユダを救おうと努力された4)。

 1)ヨハネ伝13の27

 2)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P54を参照

 3)ヨハネ伝13の26

 4))ヨハネ伝13の11,18,21

そして、ユダに直接的に、その罪を悔い改めるように、愛を持って、ユダの罪と悔い改めを指摘された。イエスは、何度もユダに警告し、直接的な言葉で、裏切っていることを指さして言われた1)。しかも、悲しみの表情を克明に現して、ユダに罪の悔い改めを促されたが、ユダは頑として聞こうとしなかった。かくも主イエスの、愛に満ちた悔い改めへの指導があったにも関わらず、ユダはえこじにも罪に止まり続けた2)。そしてついに、ユダはイエスに対する罪悪を遂行するために、決行の準備を始める。ユダは夢遊病者のように、彼は完全に悪魔の虜になって3)、もはや、彼を正され、悔い改めへ導こうとしている主イエスの御声など、彼の耳にも、彼の心にも響かなかった。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P55を参照

 2)ヨハネ伝13の27、30

 3)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P58を参照

聖書が指摘しているように1)、彼の全身全霊も暗黒の夜に支配され、主イエスのことも、主イエスの助けの手も、全然見えなかった。

 ユダは、自らの愛する主であるイエスを、卑劣な方法で裏切ってしまう。それは尊敬し、愛する行為として行われる接吻によってである2)。まさにイエスの愛を踏みにじる言動である。ユダの裏切りに対しては、すでに旧約聖書に予言されていた3)。

 1)ヨハネ伝13の30

 2)ルカ伝22の47-48

 3)詩篇41の9

ユダの裏切り行為は、悲しい事実であるが、彼の裏切り行為は、そうなるように詩篇41篇の9節に予言されていた事が事実となった。何と恐ろしいことではないだろうか。しかし、反面ユダには悔い改めによって、この予言の事実を撤回することも可能であったと推測する。しかし、彼の不信仰は予言通り主イエスを裏切ってしまうのである。

 ユダの裏切りが実行されるわけであるが、実に人間として劣る、卑劣な行為で主イエスに近づき、裏切りのしるしを明らかに、明確に目に見える形で現した。ユダは愛の行為という、最悪の接待法を用いて1)、愛する人を悲劇の人に仕立て上げてしまった。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P103を参照

これは許されざる、地獄の死に値する行為である。ユダの良心はいびつになり、屈折し、粉々に破壊されてしまった。「先生」という呼びかけも偽りに満ちた、嘘にまみれた、単なる空虚な言葉でしかあり得なかった。又、ユダの口から発せられた言葉は、最も非情に満ちて、氷のように冷ややかな響きしか持たない、単なる機械的な言葉にしか聞こえなかった。ユダは白々しい言葉「先生、いかがですか」という毒針で、イエスの心をぐさりと突き刺している1)。しかし、このユダの言動に対して、イエスは優しく、ユダの言動を受容されているすばらしい、イエスのお姿を見るのである2)。

 このようなユダの罪悪を行い続ける言動に対して、イエスは更に、ユダに覚醒の呼びかけをし、悔い改めの言葉をかけられる3)。主イエスはユダに語りかけ、彼の良心を眠りの境地から呼びさまさせようと、何度も試みかけたが、ユダの良心は、頑とその眠りから目覚めなかった。そして自らを白い御座である、審判の座へと自らを追い込んでしまった4)。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、PP103-104を参照

 2)ルカ伝22の48

 3)マタイ伝26の50a

 4)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P104を参照

 そしてついに、イエスはユダに対して惜別の言葉を残して、ユダから離れていってしまう1)。

 1)マタイ伝26の56a

ユダにとって、二度と主イエスにお会いできない、悔いと涙を残す生涯へと終局させてしまう。そのイエスの惜別の言葉に関して、クルムマッハーは、こう述べている。「いまや主は、彼の名を呼ばれる。主は強く『ユダ』と呼びかけられる。しかしこのとき、私たちは主が、裏切り者の目的の可能性を信じておられなかったかのように、ことばの調子を変えておられるのを知る。主はなおも問いかけるように言われる、『あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか』。それゆえにこれは、罪人を救う主の口から発せられた、悲惨な背教者に対する永遠の別離のことばであった。わざわいなるかな、この不幸な男。地獄は彼を捕虜にし、天国は彼を見放した。この問いのうつろな響きは、なおもユダの頭上にとどろいていた。」1)。ユダにとって、この主イエスの声はユダの良心を揺さぶり、彼の良心に呵責の念を呼び起こそうとしている。しかし主イエスの救いの声はユダには明白に、激しく彼の心に大波のように押し寄せてきたにも関わらず、彼の心の戸を開かせなかった。それ故に、この主の語りかけは、ユダにとって、永遠に滅びへの別離の言葉となってしまった。

 ユダは、主に対する自責の念をもって悔い改めるという、救いの道を選択せず、自殺という自滅の道を選んで2)、自分の生涯を精算するという不幸な道を歩んで、終幕を迎えた。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P105

 2)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P158を参照

ユダの生涯の最後は自殺という不幸な、何とも言い難い悲しい人生で終わった1)。そして、このユダの死は主イエスに、深く、忘れがたい悲しみと痛みをも、イエスの生涯の一ページに書き加えられた。

 ユダの与えた霊的痛み

 ユダはイエスに大いなる霊的な痛みを与えている。

 ユダはサタンの虜になっていた2)。当然イエスはご存じであった。そのことの故に、イエスの魂は悲しみと痛みに満ちていた。又、ユダは口づけという、愛情と信頼関係を現す行為によって、イエスを裏切ってしまった3)。これは、イエスに衝撃的な霊的痛みを与えてしまった。しかし、イエスを売ったユダは後に後悔したが4)、悔い改めず、イエスの魂に深い悲しみと痛みを残してしまった。

 1)マタイ伝27の5。ユダとペテロの相違は、ユダは悔い改めず自殺したが、ペテロは悔い改め立ち直った。

 2)ルカ伝22の3

 3)同上22の48

 4)マタイ伝27の3

 ペテロの否認

 ペテロのイエスと共に歩んだ生涯の中で、主イエスを否認するという言動は、彼の主イエスに対するすばらしい奉仕の中に、大きくて、深刻な汚点を残してしまった。これはぬぐい去ることのできない、永劫未来までに、記録されてしまった失敗である。何故にこのような否認という、失敗をしてしまったのか、そのペテロの否認の真髄について、考察してみたい。

 ペテロは、イエスの弟子になり、イエスと交わりを持ちながら、イエスをどのように理解していたのであろうか、ということを考えなければならない1)。

 1)マタイ伝16の16

ペテロは自分がイエスを第一に愛して、イエスに最善に尽くしているという事に関しては、自負していた。しかし、イエスのこの世に於ける使命、救い主としての働きの使命に関しては、おぼろげな認識しか持ち合わせていなかった1)。弟子たちの中で、指導的な立場を占有していたペテロが、イエスの大事な神の使命の真髄を捕らえていなかったことが、ペテロのイエスを否認するという失敗の輪を広げていく端緒となった2)。

 それでは、このペテロという人物が、どのような人であったのかという、ペテロの人物性に目を留めてみる。ペテロの性格は計画性のある人ではなく、熱心な人ではあるが、ずさんな面が強く取り上げられている3)。

 1)マタイ伝16の23

 2)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P122を参照

 3)特に三度もイエスを否認すると言うことに現れている。(ヨハネ伝18の17、25-27)

そのずぼらさ、言い換えるといいかげんさが、イエスとの生涯の中に様々な問題の尾を引きずっていくことになる1)。特にこのイエスの晩年の時期に、決定的で、償うことのできない汚点を遺留してしまう。さてもう一歩近づいて、ペテロの否認の動機について考えてみる必要がある。ペテロは、イエスが捕縛されたことに関して、気にかけ、心配していたが、他の弟子たちと同じように、逃避してイエスと関係を持つまいと決意していた2)。しかし、たまたま、大祭司の知り合いであるヨハネに呼び止められ3)、イエスの裁判に臨席することになり、ペテロにとって災いが飛び火してくる。ここからペテロのイエス否認への第一段階が始まる。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P123を参照

 2)ヨハネ伝18の17、25-27

 3)ヨハネ伝18の15

 ペテロの否認の始まりは、単純な行程を経過して、ごく単純に進んでいく1)。ペテロのイエスを拒否するという、恐ろしい意図は人を恐れるという所から始まった。彼は神を恐れず、現在自分が接している人々、大祭司を初めとする、そこにいた傭兵、使用人たちの目を恐れた2)。しかし、裁かれているイエスには、少しの目もくれず、ただその異状で恐ろしい環境から、自分をどのように救うかにしか関心を持たず、思案していた。

 ペテロは、段々と不利な方向へ追い込まれていく。いわゆる裏切り者への攻撃が始まる3)。ペテロは、今の忌避すべき場所から、いち早く逃げようと身構えて、その逃避方法を思いめぐらしていた4)。

 1)ヨハネ伝18の18

 2)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P124を参照

 3)同上P124を参照

 4)マルコ伝15の68

しかし、悪魔はその機会を剥奪して、周囲の人々を誘って、ペテロに攻撃の触手を伸ばしてきた。ペテロは自分の犯した弱さから、逃げる事はできなかった。当然彼が受けなければならない事は、イエスに対する愛と情けの義務を怠った者への、神の報いである。

 ペテロは、イエスを否んだことに対する、彼の心の異常さに対して、段々と良心のうずきが起こってくる1)。ペテロの心のうずきが、どのように胎動始めたのかを見ると、ペテロの心理状態が分かってくる2)。

 1)マタイ伝26の70

 2)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P125を参照

ペテロの良心は、悪と善の狭間の間で、風にあおられている波のようにあてどもなく彷徨っている。彼の良心は、イエスに対する申し訳なさを感じながら、口からでる言葉は、自分を弁解して、良心と相反する行動を取って、イエスを否認している1)。ペテロは心の痛みを覚えながら、良心の導きと反する言動に押し流されている、哀れな自分の姿を見る。

 ペテロのこのような、曖昧な行動を見ていくと、それは彼の言動に対する無責任さを感じる。その無責任な行動が、自らの判断を鈍らせ、自分の意志を曖昧にさせている。ペテロの無責任さは、次々と彼を罪の泥沼へと引き吊り込んでいった。彼は警告の声として、鶏の鳴き声、女中や兵卒の的中する言葉があったにもかかわらず、その警告の声に耳を傾けるのには、良心の呵責によって、気が動転していて、これらの警告の声に、心を冷静にして、その声に耳を傾注する余裕がなかった2)。

 1)マタイ伝26の72

 2)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P125を参照

常にびくびくして、その場からどのように逃避するかと言うことにしか、彼の神経は向けられていなかった。これは哀れなる罪人の姿である。

 ペテロが、イエスを否認した決定的証拠の事例をあげて1)、それがどのようなものであったのかと言うことを検証するならば、これはまさに恐ろしい、驚くべき事実である。その否認を検証して、クルムマッハーは、こう訴えている。「この哀れな男は、いまやどうすればよいのだろう。彼の足がひとたびすべると、彼は全く動揺した状態に落ち込んでしまった。二度目の犯罪の道は、いつも最初の場合よりもずっと早く進む。ペテロは、前のときよりも大胆に主を否んだ。彼は『いや、そうではない』と言った。そして誓うように、いやそればかりか、主について話していることも忘れたかのように、『そんな人は知らない』と侮蔑的に言い放った。彼らはその言葉を信じた。というのは、彼が不真実な偽りの拒絶者でないとしたら、自分の友についてこのような言い方はしないと思ったからである。

 1)マタイ伝26の74

彼らは、ペテロにそんな卑劣なことができるとは思わなかったので彼を行かせた。」1)。ここに至って、ペテロという男は救いがたい者と、思われても致し方がない状態になっている。嘘という壁を築いてまで、自分をかばい、自分の安全を確保し、逃れたいという強迫観念に捕らえられている、哀れで、萎縮してしまって、過去の勇気あるペテロの状態には回復できない者となり果ててしまった。救いがたい、哀れなペテロの姿を熟視して、私たち人間の警鐘としたい。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P126

 やがてペテロは、自らの犯した罪にどっぷりはまり、そこから抜け出されなくなる。それは、ペテロに決定的な断罪の裁判官の鉄槌が打ち下ろされたからである。ペテロは自らを弁護すればするほど、自分を断罪へと追いつめていき、逃れられない渕に自分を追い込んでしまった。彼に不利な証言と証人が、次々と暴露されていった。もはや自分の犯した大罪から逃れることは不可能になった1)。屈服されるのを拒む人間の罪性を、ペテロの中にありありと見る。ペテロの神経は極度に麻痺してしまった。

 ペテロはついに、どうすることもできなくなり、自らを徹底的に悪人に仕立てる選択の道を取る2)。これ以外に脱出の道はないと判断した。ペテロは恐れのため、又、一時的な困窮から逃れようとして、嘘をつき、イエスを否んだことが、それが時間の経過と共に、罪に罪の上塗りをして、ついにイエスを徹底的に否認してしまう3)。

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、PP126-127を参照

 2)マルコ伝14の71

 3)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P127を参照

しかも、誓いをもってイエスを否んでしまう。そしてペテロは、イエスのまなざしをまともに見られなくなってしまうほど、愚かな恥知らずになり果ててしまう。このペテロの否認は、イエスの心を激しく痛めつける。

 しかし、このペテロは、ユダがしたような、悔い改めもせずに自殺するような、自滅の道を選ばなかった。彼はやっとの思いで、又、イエスの助けによって回復する。まずその手がかりは、主イエスのペテロに対する愛である1)。この愛に支えられて、ペテロは悔い改めへと導かれていく。ペテロが悔い改め、真実な弟子の心に目覚めさせられたのは、彼がまともに見られなかった、主の「まなざし」は愛に満ちており、「ペテロよ、私はあなたの罪をゆるしますよ」2)と言っているまなざしであった。

 1)ルカ伝22の61

 2)ルカ伝22の61a

その主のまなざしに打たれて、ペテロははっと、自分の良心が覚醒し、自らの罪深さを認識させられ、主イエスに対する初めの愛に立ち帰り、回復させられ、自責の念から解放され、救われた1)。

 主のまなざしは、単にペテロが罪の悔い改めに導かれたと言うだけでなく、もっとすばらしい、恵みの効果をペテロにもたらした。ペテロに対する主のまなざしは、ペテロの生涯に大きな変化を与えた2)。かっては自分主体で、自分よがりのペテロは消滅し、他人の痛みを思いやる、特に主に対する思いは、以前よりも強く、頑強になっていった3)。これはペテロの人物性に幅をつけ、人間味を膨らませた。なんと幸いな、すばらしき効果ではないだろうか。

 最後に、ペテロを変えたのは、主に対するペテロの涙でである。それは悔い改めの涙で

 1)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、PP140-141を参照

 2)同上P141を参照

 3)ペテロの利己的な愛は、主の愛のまなざしによって、反省させられ、悔い改め大きく変わったのである。(ルカ伝22の61a)

あり、さらに主に対する熱き涙である1)。そのペテロの涙に関して、クルムマッハーは、このように感激して書いている。「ペテロは主のまなざしによって、真の悲しみを知る謙遜な心にされた。彼は神の前にも人の前にも出る資格のない者のように、『激しく泣き』だした。この涙にはなんと多くのものが含まれていることだろう。神の御前での悔恨罪に対するきよい憤り、恵みに対する激しいかわき、主に対する熱い愛が、その純粋な光から輝き出ていることだろう。」2)。

 1)ルカ伝22の62

 2)F・W・クルムマッハー、椎名慎太郎訳、『受難のキリスト』、(いのちのことば社)、P142

ペテロの大きな目から流れ出した涙の一粒、一粒には様々な思いと悔いと、そして喜びが含蓄されていたことであろう。このペテロの涙によって、ペテロの信仰告白がもう一度強められ、再堅信され、不動のものへと再創造されていった。そして主イエスの復活後に見る、あの大胆な信仰の器であるペテロの行状を垣間見ることができる。これは主イエスに大いなる喜びを与えて、主イエスを十字架の道に進ましめた。

 ペテロの与えた霊的痛み

 しかし、最後に一言ペテロのイエスに与えた霊的痛みに触れずにこの章を終えることは出来ない。

 否認し続けたペテロを振り向いて見つめられたイエスの目には、深い悲しみと霊の痛みを感じられる1)。しかし、また反面、イエスのその目はペテロに悔い改めよとの愛の促しでもあった。そして、実際的にペテロは涙をもって悔い改めて立ち直るのである2)。

 1)ルカ伝22の61

 2)同上22の62