第3章 イエスの十字架の痛み

 第1節 十字架の痛み

 いよいよ痛みのクライマックスである、イエスの十字架の痛みについて、考察していく。イエスは私たちの罪の痛みのために、私たちに変わって十字架について下さった。しかし、その十字架の痛みは奥が深い。単純にイエスの十字架を語り尽くすことはできない。十分に考えて、イエスの十字架に接近して、その痛みについて、熟視して、静かに耳を傾けて、イエスの十字架を見てみたい。

 アガペーと十字架神学

 十字架は神の愛から発出したものである。そして神が、罪人を滅亡から救出せんがために、十字架は愛の動機に裏打ちされている。そのことについて、アンデルス・ニイグレンは、このように述べている。「アガペー誘因の補修へのパウロの最も重要な寄与は、彼がアガペー思想をいわゆる彼の十字架神学への内的関係に置いた様式に由ってなしたのである。キリストの十字架は疑いもなくパウロの宣教の中心に立っている。彼は全努力を意識的に『イエス・キリスト及びその十字架に釘づけられしこととのほかは・・・何も知るまじと心に定めたればなり』(コリント前2の2)に向けた。」1)。パウロ神学の根底には、アガペー(愛)に基礎をおいた十字架信仰を前面に押し出していて、その十字架がパウロの宣教の動力になっていることは明白である。

又、パウロはこの十字架信仰を通して、神の義を宣べ伝えた。即ち、イエスの十字架による犠牲は神の義を現すものである、とパウロは強調したのである2)。

 1)アンデルス・ニイグレン、佐藤信彦訳、『基督教的愛の思想』、(西荻書店刊)、PP90-91

 2)ローマ書3の25-26

パウロは、彼の伝道生涯を通して、この十字架の信仰を強調し、多くの人々に述べ伝えていった。

 十字架のスペクトル1)

 1)スペクトルとは複雑な組成をもつものを、単純な成分に分解、順に配列したもの(三省堂現代国語辞典より引用)。十字架に関するイメージが多彩であると言うこと。それは十字架が救済そのものの多次元性や多局面性に起因している事を意味する。

 イエスの十字架を、人々は単なる抽象化したものとしてみる傾向がある。しかしそれは、抽象化をはるかに越えた、深い意味合いを持っている。そのことについて、インマヌエル高津教会牧師であり、哲学博士である藤本満は、こう述べている。「十字架の理解がイメージに依存し、しかもそのイメージが多彩であるという事実は、決して贖罪の業があいまいな神秘をまとっている、ということを意味しない。むしろブラーテンが言うように、一つの十字架が多彩な象徴において表現されてきたのは、救済そのものの多次元性・多局面性に起因している。」1)。イエスの十字架そのものに関するイメージは贖罪が遠大である。十字架そのものは、その十字架の持っている深さに起因している。であるから十字架に対するイメージが膨らんでくる。私たちの主イエスの十字架は単なる、荒削りの丸太が十字架に組み合わされた形だけの十字架ではない。それはイエス自身がつけられたあの十字架であるのだと強調されなければならない。そこでイエスが苦しみ、もだえられたという、特別な十字架なのである、ということを忘れてはならない。

 イエスの十字架をどのように理解すべきかと言うことを考えると、それは人知では測り知ることは、とうていできないほどの重みが十字架の内には秘められている2)。

 1)藤本満、『十字架のスペクトル(贖罪論概観)』、(日本福音主義神学会)、PP21-22

 2)マタイ伝16の24

そのことに関して、藤本はこう記している。「十字架の理解は、その初めにあたって、多彩なイメージを駆使し、ヴアリエーション豊かな表現を取ってきた。しかもそれら全体が組み合わさって、贖罪と救済に関わる一つの生ける真理を私たちに提供していたのである。」1)。イエスの十字架は、十字架を見るものに様々な思いを抱かせて、それぞれに様々なイメージを抱かせ、その表言においては、もっとより複雑で、詩的で、情緒的な表言を考えださせる2)。それくらい、イエスの十字架は、それを受ける者に大きな影響を与え、それを受ける者に、イエスの十字架の痛みの実態を感覚的に体験させる。それは、その十字架の持っている贖罪と救済の内容の豊かさと深さのためである。

 1)藤本満、『十字架のスペクトル(贖罪論概観)』、(日本福音主義神学会)、P22

 2)ルカ伝9の23,ガラテや書2の20

 十字架をどう理解するかと言うことは、とても重大なことである。それは十字架を倫理的、道徳的な面でしか考えない神学者が多数いるからである1)。そのことについて、藤本はこう述べている。「アベラルドゥス(1079-1142)が提唱した、いわゆる道徳的感化説・主観説と呼ばれている十字架理解は、上述のような法廷イメージに対するアンチテーゼとしての役割を果たしてきた。アベラルドゥスによれば、十字架上のキリストの自己犠牲を通して、父なる神は、その愛を決定的に世に示したのである。そして、すべてのことを私たちに与えてくださった御方を見せられた今、私たちは罪を悔い改めて、愛をもって神に帰る。このように愛の応答を引き起こすのが、十字架であるという。」2)。

 1)例えばアベラルドゥス(1079-1142)などの神学者である。

 2)藤本満、『十字架のスペクトル(贖罪論概観)』、(日本福音主義神学会)、P26

イエスの十字架は贖罪論という、大きなテーマのもとに、私たちに救いの重要性を訴えている。それもイエスの、愛による犠牲によって成立した救いである。十字架は愛による犠牲の救いであるという基準に基づいているという、根本概念であり、贖罪論の規定概念をはずれて、単なる道徳的・倫理的概念に止まるなら、イエスの十字架は空しくなり、意味のないものとなってしまう。

 十字架は、特に愛の業であったという概念に基づいて、私たちに十字架の真価を表示している。十字架という悲惨な刑罰であるが、イエスの愛によってもたらされた恵みである。何故なら、ヨハネは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(15の13)と言っている。その十字架の愛について、藤本は、更にこう言っている。「十字架がキリストの愛の業であったことは、福音書を一べつしただけでもよくわかる。十字架は、決して事の必然性からイエスの上に振り掛かった災難ではなかった。十字架は『だれも、私からいのちを取った者はいません。私が自分からいのちを捨てるのです』(ヨハネ10・18)とあるように、キリストの側の自発的な行動であり、『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持ってはいません。・・・あなた方は私の友です』(ヨハネ15・13-14)とあるように、愛に根拠をおいた自己犠牲であった。」1)。イエスの十字架は私たち人間に対する愛から出たものであり、犠牲愛を内に秘めた父なる神からの賜物である。イエスは、私たちを親愛なる友とみなして、その友にご自分の生命を、自発的に献げ、捨てて下さった。ここに私たちは、イエスの十字架の多大な犠牲、私たちの生命によって償うことのできない、大きな大きな負債を、私たちは背負っている。しかしこの負債は、私たちにとって重荷ではなく、大いなる恵みなのである。

 1)藤本満、『十字架のスペクトル(贖罪論概観)』、(日本福音主義神学会)、P26

 悲惨で、むごたらしく見える十字架が、復活という瞬間に、喜びと栄ある十字架に変貌を遂げた。その秘密について、藤本は、このように書いている。「罪なく、あれほど人々を愛した御方が、裏切られののしられ、はりつけになったということは、十字架をますます惨たらしい、神に見捨てられたような悲劇として人々の目に焼き付けた。『このお方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ』(ルカ24・21)という弟子たちの望みが木っ端みじんに砕かれ、暗い顔つきになって、部屋に閉じ込もるほど、十字架は絶望的に彼らの目に映ったのである。しかし、復活されて主が、彼らの心を開き、聖書を開いて説き明かしを始められると、あの惨たらしい十字架の中に、弟子たちはまるで違った性質のもの、すなわち神の愛を、見るようになった。十字架の中に『神の定めた計画と予知』(使徒2・23)という摂理的な働きを悟るばかりか、それが神の愛に基づいた贖いの業であったことを確信するのである。」1)。主イエスの復活以前の弟子たちにとって、イエスの十字架は絶望的で、深い悲しみの対象でしかなかった2)。イエスの十字架を見る度ごとに、悲しみと暗さが、弟子たちの心を支配する何ものでもなかった。この事は弟子たちばかりでなく、イエスを愛する者、全ての者の心の状態である。しかし、イエスを愛する者たちにとって人間の努力や、自分の克己心で、どうすることのできない心の状態も、イエスの復活により、イエスの十字架が大きな喜びに変えられた。もはや、イエスを愛する者たちにとって十字架は悲しみと暗さの対象でなくなった。十字架は喜びと愛に基づいた贖いの業になった。ここにイエスの十字架の神秘性が隠されていた。

 1)藤本満、『十字架のスペクトル(贖罪論概観)』、(日本福音主義神学会)、P27

 2)ルカ伝24の21

 イエスの十字架を考える時に、イエスが十字架にかかられたのは、私たちを罪から救うために、なだめの供え物としての役割を果たされた、ということは明白な事実である1)。その事に関して、藤本は更にこう述べている。「だが、ローマ3・25において『なだめの供物』以外の訳語を好んだとしても、十字架理解から『なだめ』の要素を取り去るわけにはいかない。確かに、十字架は神の愛を基盤にし、神の側から発せられた救いの出来事である。だが、私たちは、罪と罪人との上に臨んでいる、神の怒りと裁きの事実に目をつぶるわけにはいかない(ローマ1・18,2・5,3・18)。それは、二者の間の壁となり、敵意となって、立ちはだかっていたのである。(エペソ2・14-18)。十字架を通して、罪がおおわれ、神の裁きが過ぎ越されていくのであるから、モリスやラッドやクランフィールドのように『なだめ』という訳語に固執する神学的意図も十分に理解できる。

 1)ロマ書3の25

またC・K・バレットは、ヒラスリオンの訳語としてexpiationを選択しながらも、罪が覆われるとき罪に対する神の裁きがpropitiateされるという『なだめ』効果が実質的についてくるという理解を示している。」1)。キリストの十字架は、罪人の救いに多大な贖いという効果を実現しただけでなく、罪人の実質を救いという現実的な効果をももたらした。しかし、それは人間の側からの解釈である。神の側から解釈するなら、それは『なだめ』効果である。神の側のイエスという尊い御子を、人間のために、しかも罪人という、無価値な者のために、神は大いなる犠牲として、イエスを「なだめの供物」とされた。この神の「なだめ」思想は驚くべき事実であった。これが十字架の持っている底深い奥義である。

 1)藤本満、『十字架のスペクトル(贖罪論概観)』、(日本福音主義神学会)、PP33-34

 イエスの十字架は罪の贖いという一面だけでなく、もう一方の神との深い別の関係を示唆している。その事について、藤本はこうもいっている。「『キリストは我らの罪のために死にたまえり』とは、初代のキリスト教徒の間にいち早く定着した十字架理解の原型とも言うべき者である。だが、十字架は、罪という問題の解決ばかりか、神との交わりの復元・神のいのちへの参与という積極面を持っている。」1)。イエスの十字架は、私たち人間の自分では拭えない罪の処理に多大の貢献をしただけではない。十字架によって人間は、断絶されていた神との交わりが回復され、切断されていた神との交わりのパイプが補修され、アダム的、断絶的交わりの回復が修復された。そればかりでなく、私たち人間は神のいのち、永遠のいのちへの初穂を頂いて、天の御國への特権を与えられた2)。

 1)藤本満、『十字架のスペクトル(贖罪論概観)』、(日本福音主義神学会)、P36

 2)コリント前書15の20

 イエスの十字架は、私たちの肉体という外側に関与し、それを取り扱っただけでなく、私たちの魂の至聖所である、内なる面にまでメスを入れられた。聖書はそのことに関して、このように教えている。イエスの十字架は、神の義のためであった。それは過去の、歴史的事実であるが、それは単に、過去の、歴史的事実だけで終わるものではない。過去に復活されたイエスが、今なお生きて、働いておられる。イエスの救いの業が過去になされたのに、現在も有効に働いて用いられている。十字架の恵みは罪人の救いだけでなく、信じているキリスト者に、特に、キリスト者の内面的成長に大きな力を与えている。そして彼らをキリストの形にまで形成している。

 十字架を運ぶ

 イエスは私たちのために、十字架にかけられた。イエスはご自分の十字架を、ご自分で担われた1)。

 1)ヨハネ伝19の17

私たちもイエスの十字架を担わなければならない1)。イエスの十字架を担うとはどういう事であろうか。その事について、元日本キリスト教団月寒教会牧師であった定家都志男は、こう述べている。「イエスが『・・・自分の十字架を負うて・・・従ってきなさい』と言われたことは誰でも知っている、わかっているように思っている。十字架負うて従うとは、十字架の運搬人なることではなかろう。それではいわゆるカツギ屋にすぎない。もし十字架の運搬人であるとしたら、われわれは一体誰のために運んでいるのだろうか。イエスをもう一度十字架につけようとするのか、それとも誰か自分以外の者のために持ち運んでいつでも間にあわせようとするのだろうか。」2)。

 1)マタイ伝10の38

 2)定家都志男、『あなたは、どんなお祈りをしていますか』、(小峯書店)、P46

イエスはご自分の十字架をゴルゴタの丘に向かって、ビアドロローサの道を、何度も転びながら、懸命に運んでいった。しかし、遂に運びきれず、クレネのシモン(彼は無理矢理にイエスの十字架を背負わされた)が肩代わりして、残りの道のりを運んだ1)。私たちも、イエスの十字架を運ばねばならないのだが、どのようにイエスの十字架を肩代わりすべきであろうか。単なる荷運搬人のように、荷物を運搬するように、イエスの十字架を運んだとしたら、それは、イエスの十字架の真の意味を解していない者の行動となってしまうからである。イエスの十字架は、イエスの心の痛みを解し、私たちのために、主イエスが十字架を担って下さったのだ、と言う深い感謝の念を持って、イエスの十字架を、私たちは肩代わりさせて頂きたいものである2)。では、実際にイエスの十字架を、どのように担うべきであろうか。その事を定家は、このように描写している。

 1)マタイ伝16の24

 2)マタイ伝27の32

「十字架を負うとは、本当は肩に負うことではなく背中に負うことであろう。イエスがなさったように、ピタリと背中に荒削りの十字架につけ、隙間ができないように釘付けにされることに違いない。そうでなくただもち運んでいるだけなら雑作のないことで、そんなくだらない事をイエスがいわれる筈はない。」1)。イエスの十字架を負うと言うことは、第三者的な、又、傍観者的な立場で、十字架を負うことではなく、本当に自分もイエスと同じように、十字架に釘付けられたという痛みを持って、イエスの十字架を負う。それは我々に、もはや自分のために生きるのではなく、キリストのために生きる。そうするならば、イエスの十字架が、私の罪のためであったと我々は実感をもって知ることができる。又、イエスの十字架の痛みを思いやることができる。

 1)定家都志男、『あなたは、どんなお祈りをしていますか』、(小峯書店)、P47

 十字架につける

 十字架につけると言うことは、どんなことを意味しているのであろうか。その事に関して、ナザレン教会初代の有力な伝道者であったC・W・ルスは、このように述べている。「『十字架につける』という語は、殺すという意味である。十字架につける目的は殺すことである。一体何が十字架につけられるのかというに、我らの罪が十字架につけられるのでも、肉体がつけられるのでもない。パウロは『われらの古き人、キリストと共に十字架につけられたるは、罪の体ほろびて、こののち罪につかえざらんためなるを』と言っている。ことに我らの内に死ななければならないものがあることをはっきり示している。この十字架につけることは、先に言った生かす、生きた者にすることは全く違ったことである。『われらの古き人』は、ゆるされるべきものではなく、『十字架につけ』なければならないものである。」1)。イエスが十字架にかかられたのは、私たちの肉体や、単なる罪のためではなかった。それは私たちの古き人、私たちの人生を悩ましている内なる人、換言すれば「原罪」、「罪の根」である2)。この古き人が殺されなければ、一生涯私たちはこの古き人に支配されて、私たちの生涯は、この古き人の奴隷となって、自由のない、生ける屍として、私たちは自分の生涯を不幸に過ごさねばならない。

 1)C・W・ルス、大江信訳、『キリスト者の経験の第二の転機』、(日本ウェスレー出版協会)、P71

 2)ロマ書6の6

 十字架につけられると言うことは、どのような経験を意味しているのであろうか。その事についてルスは、このように言っている。「パウロが『われキリストとともに十字架につけられたり』とあかしした時には、彼はゆるされ、生かされたのではなく、それは全く違った経験を意味している。この聖句が行為としての罪、すなわち犯罪とは全く別なあるものを取り扱っているのだということは、すべての聖書研究者に明らかなはずである。」1)。十字架につけられるということは、イエスと共に死の経験、即ちイエスと共に十字架につけられるという経験を意味している2)。それはキリストの死の分与である。

 1)C・W・ルス、大江信訳、『キリスト者の経験の第二の転機』、(日本ウェスレー出版協会)、P72

 2)ガラテや書2の20

 更にルスは、この罪の性質にメスを入れて、もう少し詳細にこの事を分析し、このように言っている。「この『古き人』が十字架につけられることと、その結果である『古き人』の死は、すべての肉的情欲からの全き断絶、あらゆる形の罪との死別、また古き人の行い、すなわち、『怒り、いきどおり、悪意、恥ずべき言』をぬいで『義と聖とにて、神にかたどり造られたる新しき人を着る(成長ではない)』ことを意味している。『かくのごとくなんじらもおのれを罪につきて死にたるもの、神につきては、キリスト・イエスにありて生きたる者と思うべし』(ロマ6・11)。」1)。十字架の経験は殺されて、生かされる経験である。罪の性質が殺されて、新しい性質に変えられることである。即ち、古き人の罪の性質が殺されることによって、その古き人が殺されて、新しき人が生まれる。その結果、新しき人の性質がすばらしくなり、より豊かに活用されていく。その結果十字架の経験は、その人を全く新しく創造し、偉大な神の人に造り変えられる。

 1)C・W・ルス、大江信訳、『キリスト者の経験の第二の転機』、(日本ウェスレー出版協会)、P73

 キリストの十字架は、私たちを罪から解放して下さる、すばらしい手段となる。その事に関して、東京の牛込キリスト教会牧師であり、神学博士の佐藤陽二は、このように述べている。「新約聖書のコロサイ人への手紙には、次のような言葉があります。『神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた』(2・14)というのです。この意味の第一は、人間が、どんなに、格好のいいことを言っても、神さまの目は、ごまかすことが出来ない、ということであります。第二に、神は、人間の悪を必ずさばかれる、ということです。第三に、イエス・キリストが、十字架にかかって死んだ出来事は、私たち人間の罪を、あがなうための死であった、ということであります。罪をあがなうということは、たとえて言えば、借金で動きがとれなくなっている人の負債を、だれかが、支払って自由にしてあげる、というようなものです。」1)。

 1)佐藤陽二、『キリスト教三分間』、(キリスト新聞社)、P16

イエスが十字架によって、私たちにして下さったことは、罪という、私たち人間が償うことの出来ない、膨大な負債を肩代わりして、支払って下さったと言うことである。その罪の負債の内容を見ていくならば、それは私たち人間には返しきれない、とても担いきれない負債(借金)である。その負債の証書に、イエスはご自分の血で塗りつぶし、その証書を無効にして下さった。その事によって、私たち人間は、この罪の負債から贖い出され、自由にされた。

 キリストの十字架

 イエスの十字架は神がイエスを呪いの対象にした。なぜなら、罪は呪われるべきものであったからである。であるから、イエスは、私たち人間の罪の代わりに、呪われるべきものとしての十字架にかかって下さった1)。

 1)ガラテや書3の13

 その事に関して、ジャン・カルヴァンはこう述べている。「十字架は単に人間の意見によってではなく、神の律法によっても、呪われるべきものと定められていた。したがって、キリストは十字架にかけられたもうとき、ご自身を呪いにゆだねたもうたのである。そして、このようになされることが必要であった。」1)。神はイエスを十字架にかけることにより呪いの対象にされた。イエスはあえて、私たち人間のために、ご自分を呪いの対象にして、十字架にかかって下さった。この事は、イエスが私たちの痛みを、ご自分の痛みとして、あえて、ご自分を犠牲にして下さって十字架を担って下さった。この呪いを満足させるためには、イエスが十字架にかかることは避けることが出来なかった2)。

 1)Jean・カルヴァン、渡辺信夫訳、『カルヴァンキリスト教綱要Ⅱ』、(新教出版社)、PP326-327

 2)イザヤ書53の6

 この呪いによる十字架の道は、旧約聖書の予言者によって、予言成就のため必要不可欠であると言われていた。このことを指摘して、カルヴァンは、更にこう言っている。「今や、予言者の次のことばが何を言おうとしたものであるかは明らかである。『われわれすべてのものの不義がかれの上に置かれた』(イザヤ53:6)。すなわち、かれらの汚れを拭いとろうとしたもう神は、この汚れを移しかえて、かれに転嫁したもうた。この事情をあらわすのがキリストの釘づけられたもう十字架であって、それは使徒が証言するところである。いわく、『キリストはわれわれに代わって呪いとなって、律法の呪いからわれわれを贖いたもうた。木にかけられたものは、すべて呪われる』としるされているからである。」1)。

 1)Jean・カルヴァン、渡辺信夫訳、『カルヴァンキリスト教綱要Ⅱ』、(新教出版社)、P328

イエスの十字架は、私たち人間の罪という、汚れたものをイエスの上に転嫁して下さった。そしてその汚れを私たち人間から取り除くために、イエスがその人間の罪を、ご自分の身の上に覆って下さった。その罪のためにイエスの肉体を傷つけ、大いなる痛みを与える十字架で残酷な方法により、私たち人間を罪から救い、自由にして下さった。しかもこの罪による呪いは、律法の呪いの要求であって、この罪を持っている者は、律法の呪いから逃れられないので1)、当然の報いとして死を要求される2)。死の要求、呪いの要求である死の十字架にかかって、神の子であるイエスが、私たちの身代わりとなって私たち人間を救って下さった。それ故、私たち人間にとって、深い感謝をささげなければならないお方が主イエスである。

 1)コリント前書9の20

 2)ロマ書6の23

 このイエスの十字架は、私たち人間にとって、勝利の歓声を挙げるほどに、喜ばしきものであり、本当に私たちをして、罪に対する勝利の歓声を挙げさせる。そのことをカルヴァンは、このように、私たちに陳述している。「したがって、パウロは彼のためにキリストが十字架においてかちとってくださった凱旋を、あたかも恥辱にみちたこの十字架が凱旋の乗物と変わったかのようにほこらしげに説いているが、これは正当である。すなわち、かれはいっている。『キリストは、われわれにさからう負い目の証書を十字架につけ、{空中に権をとる}支配の武装を解除し、これを公に示したもうた』(コロサイ2:15)」1)。本来の十字架そのものの姿は、私たち人間にとって、恥辱をさらけ出した忌まわしいものとしての十字架である。そして、その十字架上で、私たち人間は無様な姿を十字架上でさらけ出して、苦しんで死に絶えていく。しかし、神は私たち人間を哀れみ、愛して下さるが故に、神の子である、イエスを私たちに与えて、私達の十字架の肩代わりさせて下さった。このイエスの十字架が私たちの罪に対する勝利を与え、私たち人間の負い目である罪の証書を十字架につけ、罪を無にして下さった。そればかりかイエスは、罪による滅びを喜びと勝利に変えて下さった。こうして私たちは、悪魔に対して、自らの罪に対して負い目の証書が抹殺されたことを宣言できる。

 1)Jean・カルヴァン、渡辺信夫訳、『カルヴァンキリスト教綱要Ⅱ』、(新教出版社)、P328

 十字架の苦痛の真相

 ここではイエスの十字架がどんなに苦しいことであり、その痛みがイエスの肉体を苦痛によってむしばみ、ぼろぼろにしてしまった。そして、その十字架の苦痛を私たち人間の言語では、語り尽くすことはできない。又、表現するには余りにも残酷な光景であった。どんなにイエスは、私たちの救いのために、十字架上で苦しみを耐えて下さったかを思い、深く深く、私たち人間に対するイエスの愛に深甚の感謝を献げなければならない。

 まずイエスが十字架につけられる、その様子を見ていきたい。イエスの十字架の材料は荒削りのお粗末な物であった1)。

 1)「木にかけられる者」(ガラテや3の13)から、イエスの十字架は木製のお粗末な物から作られたことがわかる。

その荒削りの木材を十字架の処刑道具として使用された。これはイエスが、一般の極悪人と同じような者として取り扱われた。であるから十字架につけるときも、刑の執行人たちは、罪人を取り扱うように、乱暴に、イエスの肉体に容赦なく、痛みを与えながら、最初の横木にイエスを押さえつけて、取り付けようとしている。しかしイエスは、その執行人たちの乱暴で、痛みを加えている行動に耐えて、無言のまま、彼らのなせる業に、ご自分の身を任されている。この情景が深い悲しみを、私たちに訴えかけている。ここからイエスの十字架の痛みが始まり、その痛みの一歩一歩が高まっていく。

 そして実際的に、イエスを十字架に付ける作業が始まる。その刑の一所作、一所作によってイエスの肉体に痛みの一撃が一つずつ加えられていく。

 十字架上の言葉

 イエスの十字架上の言葉の中にも、イエスの苦しみを表出しているものを見る1)。

 1)マタイ伝27の46

いかにイエスは十字架上で苦しみのために、言葉を選ばれて、ある時は大声で悲痛な叫び声を上げながら、ある時は人々の罪を思いやりながら神に嘆願しつつ、ある時は全身の痛みから渇きを覚えつつつぶやくように求めの声を出し、次にご自分の使命を果たされた結果安堵の言葉を発出された。そして遂に最後に、父なる神にご自分の全てをゆだねて、神に申し上げて、召されていった。この言葉の一つ一つを取り上げて、観察してゆきたい。

 イエスの十字架上での言葉の第一は、「父よ彼らをお許しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)というお言葉である。このことばについてJ・A・ストーカーは、このように書いている。「イエスが、手足にさし貫れた釘による気絶せんばかりのショツクから立ち直られたときに、最初に口をついて出たのは祈りであり、最初のことばは『父よ』であった。」1)。

 1)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P170

イエスは十字架上で苦しめられていても、常に自分のことは事の次、人間のことを第一に考えておられた。しかも他人のために祈るという、麗しい週間を持たれていたことである。しかもその祈りは、まず父なる神に呼びかけている。この父に対する呼びかけは、イエスと父との関係を濃密に現している。その事について、ストーカーは、こう述べている。「そのうえ、『父よ』という呼びかけは、これまでにあれほどの艱難を経てこられ、また現にあれほどの苦しいめにあっておられながら、イエスの信仰が微動だにしていないことを証明していた。」1)。このイエスの「父」という、神への呼びかけは、イエスが神に信頼を確実にしているとの証拠である。この信頼の絆があるからこそ、イエスは十字架の苦痛を耐え得た。さて、このイエスの祈りは何のためであったのかということについて、ストーカーは、こう言っている。

 1)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P171

「この呼びかけに続く祈りはさらにきわだっていた。それは敵のゆるしを求める祈りであった。・・・しかし、これらすべてに対するイエスのことばは、『父よ。彼らをお赦しください』であった。」1)。

 1)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P172

イエスが十字架上で祈ったことは、自分に対して残酷な行為を取ったもの立ちに対してであった。これは人間的敵対論によっては、割り出すことのできないものであった。しかし、イエスの愛に基づいた行動は、敵をも愛するという動機によって、イエスの行動パターンが決定づけられている。イエスは苦痛にさいなまれていても、常に他人の思いを見抜いて、それに相応しい反応を示される。その事に関して、ストーカーは、次のように言っている。「息も絶え絶えの主は、敵のゆるしを求める祈りに、『彼らは、何をしているのか、自分でわからないのです』という理由をつけられた。ここから、われわれは彼の神的愛の深みを、さらにうかがい知ることができる。被害者は通例、自分の事情にばかり気をとられがちで、できるだけ相手の行動の悪い面だけを見たがる。しかしイエスは、敵によって加えられた苦痛が頂点に達したそのときに、彼らの行動に対するゆるしを求められた。」1)。イエスはご自分が、まさに苦しみの絶頂におられた。それに私たち人間の思考では、他人のことに思いを馳せている時間に余裕は皆無である。しかし、イエスは自分に敵対し、残酷な仕打ちをした者たちへの赦しの祈りを捧げている2)。しかも、彼らの思いを推察して、彼らがイエスを十字架につけたのは、彼らの無知によるものであると、彼らに対する弁護の祈りを捧げている。ここにイエスが、本当に愛の人であるとの確証を示唆している出来事である。

 1)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、PP174-175

 2)ルカ伝23の34

 イエスの十字架上の第二の言葉は、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:4)というお言葉である。このイエスの言葉は、事実恐怖によってかもし出された言葉である。その事について、ストーカーはこう言っている。「突如として沈黙の夢を破って彼の口をついて出たことばは、その三時間前に彼の内心で起こっていたことを示すものといってよいだろう。それは、絶望のどん底からの叫び声である。実際、それは、いまだかって、この大地を取り巻く大気を震わした最も戦慄すべきことばであった。われわれにとっては、既になじみのことばだとはいうものの、今日でも、感じやすい耳をもった人ならば、冷たい恐怖の戦慄なしにこれを聞くことはできない。」1)。

 1)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、PP206-207

このイエスの口をついで、突然に大声で叫び出された言葉は、苦痛の極みの結果であり、長時間十字架上で苦痛に耐えていることの恐怖であり、孤独であったかを--神は背後から見守ってはいるが--叙述に現している。私たち人間なら、とっくに大声で叫び、なき悲しみ、死へと旅立ってしまっているところである。しかし、イエスは、絶望の淵から、這いずり上がり、全身の力を振り絞って、神に叫び求めている。そして、このイエスを見るものに、深い悲しみを与える。しかも、この叫びは、苦しみの内容がどんなものであるかを、私たちにかいま見せている。ストーカーはこう表現している。「この叫びが発せられたとき、キリスト自身の心を最も大きく占めていたものも、驚きであった。ゲツセマネでは、『苦しみもだえて』祈られた、と書いてある。この叫びも明らかにそれと同じである。」1)。

 1)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P207

イエスが十字架で、こう苦しみ叫ばれたのは、ちょうどゲツセマネで血の汗を流して「もだえ苦しんだ」と同等の苦痛を伴った祈りであった。十字架上のイエスは、事実血の汗ではなく、生々しい血を流して、「もだえ苦しみ」なさった。それにゲツセマネの苦しみは、イエスの心理的な苦しみの絶頂であったのであるが、十字架の苦しみは贖罪的に絶頂の苦しみであった。

 イエスのこの苦痛の叫びは、身体的痛みが原因していたことも深い関係がある。その事について、ストーカーはその原因をこう見ている。「ここに身体的要素もからまっていたことは疑いない。すでにかなりの時間、十字架上にかかったままであったし刻一刻苦痛は増していった。手足の傷ついた部分は、空気と日光にさらされていたため、皮膚がむけて固まっていた。血液は循環を妨げられて心臓と脳の部分に凝集し、これらの器官は炸裂せんばかりであった。からだをこの耐えがたい姿勢からほんの少し動かしただけでも、身を切られるような痛みが全身を走った。肉体的苦しみは頭脳を曇らせ、心の鏡に映る像をゆがめる。そこに映ずる神の御顔ですらも、肉体に加えられる激痛によって恐るべき姿に変わらないとも限らない。」1)。人間の肉体は極度に苦痛にさらされるときに、頭脳に大きな狂いを生じさせる。そして思考、心理、神経に問題を起こしてしまう。同様にイエスにも、そのような問題が発生したのかもしれない。体全体から流れ出てきた血は、体の至る所で乾ききってしまった。そして生理的に、皮膚から流れ出てくる血は止血作用により、体外への流れは少なくなり、むしろ血の流れは緩やかになり、脳と心臓に凝集し、固まったいき、そこの部分にたまっていった。その証拠に、兵卒が、イエスの脇腹から心臓に槍を突き刺したとき、心臓から多量の血が流れ出したことを聖書記者は記している。2)。

1)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P210

2)ヨハネ伝19の34

 イエスの十字架上での絶叫の中で、「どうして」という言葉に一つの謎がある。それは、どのように理解したらよいのであろうか。その事に関して、ストーカーは、このように説明している。「しかしながら、この絶叫を彼の胸よりしぼり出したのは、単なる肉体的なもの以上の何物かであったことは容易に理解される。もし、ゲツセマネにおいて、イエスの意志の努力が、父なる神の意志との一致にまで彼を引き上げたのだとすれば、今度は、イエスの理性の努力が、十字架の混乱と葛藤の最中にあって、神の理性との一致に達するのを見ることができよう。彼の苦悶のこの理性的性格は『どうして』の一語に明らかである。被造物が創造者に向かって『どうして』と問わねばならないときは、常に苦しみを伴う。」1)。

 1)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P211

イエスは十字架の目的について十分に理解し、それを遂行するために、十字架上で苦痛に耐えていた。しかし、その苦痛があまりにも忍耐の限度が越えたとき、絶叫の境地に達したときに、「どうして」との疑問が、一瞬イエスの脳裏をかすめた。父なる神は、私に「どうして」このような苦しみを強いているのだろうか、という問いである。そのことに関してカルヴァンは「罪のないイエスが罪人としてさばかれれたのである」と言っている。神も祈り願う気持ちで、子なるイエスに、この十字架の苦痛を耐えさせた。

 イエスのこの十字架上での絶叫は、その言葉の響きからは悲痛と激痛の共鳴の響きにしか、私たち人間の耳には響いてこない。しかし,イエスの絶叫の背後には、聞こえざる、言葉には表現されない、何かが隠されている。その隠された事実について、ストーカーは、こう証言している。「これを、どうゆう意味にしろ、勝利と呼ぶことは、わざとらしい虚勢と聞こえるかもしれない。にもかかわらず、これまで述べてきたことが正しいのであれば、苦悩が窮みに達したこの瞬間は、勝利の最高の瞬間でもあった。花が、砕かれることによってその芳香のもとを人に与えると同じく、彼も、世の罪を自分の胸のうちにしまいこむことによって、世界に救いをもたらされた。」1)。このイエスの絶叫は、暗黒の中からの叫びであり、絶望の中からの叫びとしか思われないほど、私たち人間の目に明らかに映り、私たち人間の耳にイエスの絶叫が共鳴している。しかし、苦痛の絶頂に到達したイエスの口から出たこの言葉は、神の沈黙によって、イエスの死をもたらし、イエスの死によって、私たち人間の贖罪が完成することを裏付けている。であるから、このイエスの神に対する絶叫は勝利の宣言である。イエスの外面的な状態からの観測ではなく、内面的な観測によって、イエスの絶頂の叫びは、勝利をかもし出した言葉である。

 1)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P215

 又、このイエスの叫びは絶望的ニュアンスを響かせているが、このイエスの叫びをよく聞いて、緻密に分析するならば、その叫びの中から、一つの輝きを取り出すことができる。その事に関して、ストーカーは、このように述べている。「この叫びそのものは絶望の声かもしれないが、しかし強い信仰を含んでいた。彼が両手で永遠者をいかにしっかりつかんでおられるか、『わが神、わが神』ということばを聞くがよい。これは祈りである。これまで、この試練にあったとき、この力の源に走られたことは何度あったかしれない。そして今、この苦悩の窮まったときにおいてはもちろんである。こうして絶望はのぞかれる。『わが神』と呼びうる人は、決して見捨てられない。・・・イエスも、絶望の叫びをあげるそのことによって、絶望を克服された。神に見捨てられたと感じて、神の腕の中にとびこんでいかれた。すると、神の守りの御手は暖かく彼を抱きかかえた。全地にかかっていた暗黒のとばりが、第九時になってあがると、彼の心も太陽を奪われた闇の中から脱した。そして次に見るとおり、以後のことばは、いつもの平静さに包まれている。」1)。

 1)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P217

イエスのこの絶望に見える言葉は、実はパラドックス的発想で、絶望は信仰の発想の原理である。私たち人間も神を信じていたなら、絶望は信仰に変換される。信じるものがそうであるなら、偉大な神の子にとって十字架の叫びは大いなる信仰の原理の現れなのである。その証拠に、イエスは絶叫の中で、「わが神、わが神」と最初に叫ばれている。この言葉には、苦痛の絶頂の中でも、神に対する信仰をしっかりと所持している。神にしっかりとしがみついて離していない。それに、このイエスの絶叫は祈りの叫びである。神に対して、苦痛の中から、力を振り絞って、最後の祈りを捧げている。であるから、このイエスの絶叫は神の勝利の御座に着座されたイエスの言葉である。

 イエスの十字架上での苦しみを表現している第三の言葉は、「わたしは、かわく」(ヨハネ19:28)という言葉である。この短い言葉の中に、イエスの深い苦しみが表現されているかが分かる。その事について、ストーカーは、こう記している。「われわれは十字架上の第四のことばを、それが語られる前の三時間に及ぶ沈黙と暗黒のとき、苦しみの中にある神の御子の胸の中にあった葛藤のクライマックスとして、また同時に、その葛藤からの解放としてみた。」1)。

 1)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P218

イエスはしばらくの間沈黙していたが、その長時間の沈黙を破って、言われた言葉が、この「わたしは、かわく」であった。これは肉体的には、多量の血を流されたことによって、水分の排出により、肉体的渇きが起こったことである。しかし、ここでの渇きは霊的な面での渇きが、もっと強く表出されていることである。十字架上に長い間かけられて、その苦しみとの悶えとの戦いにより、イエスの魂は大いに疲弊し、くたびれはて、魂に葛藤を覚えた。そして、魂のクライマックスに達した。

 苦しみによって渇きが生じる、これは避けることのできない、生理的、心理的な現象である。その事についてストーカーは、こう述べている。「十字架の刑の最高の苦しみはこれであった。この戦慄すべき刑罰に伴う苦しみは、想像を絶する複雑なものであった。しかし、しばらくして、それらはみな一つの大きな流れに集められて、その中に吸収されて行った。それはすなわち、からだを焼き尽くすような渇きである。主の口より第五のことばを発せしめたものはこれであった。これは、十字架で主が発せられた肉体的苦しみを現す唯一の叫びである。」1)。この「かわく」という言葉は、実にイエスの十字架の苦痛を叙述に表している言葉である。イエスの肉体に痛みが加わり、その痛みが強くなるに従い、火で焼き尽くされるような渇きが、イエスを襲い、イエスを苦しめた。イエスの体温が上昇し、体が焼けるように熱くなり、さらに苦しみが間欠的に襲ってくる。その苦痛に応答して、イエスの口から出た「わたしは、かわく」という苦しみの叫びである。この言葉からイエスが、これほどまでに、私たちの悪しき罪を贖うために、私たちに代わって、十字架上で苦痛を味わって下さった。ということを涙と深い感謝を持って、イエスの十字架を見上げる者でありたい。

 1)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P220

 イエスの十字架上の苦痛を現す第四の言葉は、「完了した。」(ヨハネ19:30)という言葉である。これも短い言葉であるが、イエスの十字架上の苦痛を表した言葉である。しかし、この言葉は、イエスの神から委ねられていた業が終了した、ということをも暗示している言葉である。その事に関して、ストーカーはこう言っている。「イエスの体験においては、二つともきわだっていた。達成すべき大事業をゆだねられていたと同時に、それを完成する過程において、非常な苦労を重ねられた。しかし、今や、両方とも首尾よく終わったということ、それが第六のことばの言い表さんとするところである。それゆえに、これは第一に事業に一生を打ち込んだ人の完成の叫びであり、第二に苦労した人の安堵の叫びである。」1)。

 1)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P230

イエスが神から依頼された大事業は、私たち人間を罪の刑罰から救うという大事業であった。その大事業は、イエスが十字架によった苦しみ、完全に罪の払う報酬である死に、ご自分を投げ出されることであった1)。そしてイエスの十字架による死は、我々のの罪の報酬による死を満足させた。この故にイエスは、この神に命じられた大事業を完成された故に、「完了した」と宣言された。であるから、これはイエスの完成の叫びであった。それと共に、イエスの肉体的苦痛も、ここで終わり、イエスはもう十字架上で苦痛に耐えることをせずともよい。肉体的苦しみもここで完了した。その事をストーカーは、更にこう述べてている。「もしイエスが、『成し遂げた』と十字架上で言えるような大事業をその生涯の事業としておられたのだとすると、彼はまた、特別例外的に、苦難の人でもあった。しかし、十字架の上から、自分の苦難もまた終わったと言うことができたのである。」2)。

 1)ローマ書6の23

 2)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、PP234-235

イエスは十字架上で、この苦難に勝利し、苦難の人であったということを証明した。この苦難によって、神の命じられた大事業を、私たちに人間のためになし遂げられた。私たち人間のために命がけで大事業を完成して下さった。そしてこの大事業による苦難が、神とイエスと、私たち人間のために終わったと、終了宣言をされた。

 このイエスの完了宣言の言葉は、イエスの苦杯を意味している。その事に関して、ストーカーはこのように指摘している。「最後に、十字架上で、これまでも幾度となく飲まされた杯が、これを最後として、彼の手に渡された。その一杯は、かってなかったほどに多量で、黒く、苦かった。しかしひるまれなかった。それを飲みほされると、彼自身の完成のドラマの最後の一こまが終わり、最後の一滴を飲みほして杯を投げ捨て、『完了した』と大声に言われた。すると天上から、彼の人格の完成を最後まで驚嘆おくあたわずながめていたところの者たちから、『完了した』というこだまが返って来た。」1)。イエスが十字架で受けられた、「十字架」という苦杯は、イエスの全生涯で一番苦く、量的に多量で、苦しみとしては最大限の苦痛であり、飲み干すには容易ではなかった。しかし、イエスはこの苦杯を飲み干された。しかも、ゲツセマネでの苦杯のように、躊躇しないで、ひるまれないで一気に飲み干された。神と人々の目の前でこの十字架の苦杯を飲み干された。こうして、イエスはご自分の生涯にピリオドを打たれて、「完了した」と言われて、神のもとに帰る準備をされた。

1)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P237

 イエスの十字架上の苦しみを表している、最後の言葉は、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」である。この言葉も祈り心が込められた言葉である。その事について、ストーカーは、こう言っている。「死を前にしての救い主の最後のことばは祈りであった。・・・しかし彼の最期の数時間のことばには、紛れもなく、祈りを聞き取ることができた。最後のことばが祈りとなったのは偶然ではなく、彼のうちを流れる流れはすべて、神の方へ向かっていた。」1)。

 1)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P240

イエスは最後の最後まで、神との交わりを絶やさず、彼の苦痛に満ちた霊は神にむけられ、神との交わりを断絶させては行かなかった。それで、彼の最後に口から出たことばは祈りであった。そして、それはイエスにとって一番相応しい言葉であった。また、この言葉はイエスの苦痛に終止符が打たれた。しかも、この言葉は、聖書から引き出された言葉であった。普段から、イエスは聖書を愛読しておられた。それで、聖書(詩篇31篇)の言葉を引用された。ストーカーも、こう言っている。「死を目前にして、救い主の口からもれたことばは、聖書からの引用であった。」1)。

 イエスは御自分の死を察知され、そして、自分の霊についてなされたことは祈ることであった。その事についてストーカーは、こう語っている。「死を目前にして救い主が祈られたのは、自分の霊についてであった。」2)。

 1)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P242

 2)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P246

イエスは彼の霊魂を堅く神に直結して、神にゆだねるという、神に対する祈り心を持って、神のもとに帰るのである。さらにこの祈りについて、ストーカーはこのように述べている。「イエスは、自分がいま永遠の世界へ踏み出しつつあることを知り、今にもつかみかからんものと構えているこの敵の手をかわして、霊を神の手の中に置かれた。永遠者の手は強く安全である。またやさしく、愛にあふれている。どんなにかやさしくイエスの霊を受け留められたことであろうか。『わが手の陰にあなたを隠した』と、神はそのしもべに、いにしえの予言者の中に語っておられる。そして今イエスが、自分を取り囲んでいた、目に見える、また目に見えない、ありとあらゆる敵からのがれて、この予言の成就を求めておられる。」1)。サタンは、しばしばイエスを誘惑し、熾烈な試みを持ってイエスの所にきた。そして彼は最後の最後まで、イエスを神の栄光の座から引き吊り下ろそうと画策していた。サタンは、このイエスの十字架のチャンスを見逃さず、イエスの永遠性に傷を付けようと、虎視眈々と伺っていた。しかしイエスは、サタンの悪しき画策の手を逃れて、永遠者である神の手に、ご自分の霊をゆだねられていた。まさに最善の方法を神は採られていた。そして安らかに、神に守られて、この世の最後を迎えられた。

 1)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P247

 イエスのこのご自分の霊を神にゆだねると言うことは、イエスの働きがこれで終わったのではなく、この後に大切な働きがあるということを暗示している。その事について、ストーカーはこのように証言している。「息絶えようとしておられる救い主のこの辞世のことばは、死についての彼の見方を明らかにした。神に霊をゆだねると言われたときのことばは、再びその霊を見いだすことを期待してゆだねられたのであることを示している。完全な場所にこれを預け、死の危機が過ぎ去ってから、再びそれを受けるというのである。」1)。イエスが、「わが霊を御手にゆだねます」という言葉に、彼の霊肉が死の苦痛から解放された。また悪しき者(サタン)の手から解放された。そして最も安全で、相応しいお方である、神のもとにご自身をゆだねた。神によってもう一度永遠の生命の息吹を充電していただいた。そして来るべきこの世にキリストの霊を遣わされた。やがてイエスはこの地上に再臨し、この世を審判し、この世を浄化し、来るべき天国を備えて下さる。であるから、イエスの十字架の苦痛は、私たち人間に祝福の源泉となった。

 1)J・A・ストーカー、村岡崇光訳、『キリストの最期』、(いのちのことば社)、P248

 イエスの十字架の苦痛に対する勝利

 イエスは自らの肉体を十字架につけて、十字架上で肉体的に、心理的に、霊的に苦しまれた。イエスの十字架はあらゆる面で苦痛の全てをさらけ出している。そして、苦痛の何であるかを私達に示し、見せてくれた。そして、それは私達人間が自らに経験する肉体的、心理的、霊的苦痛の全てを包含していることも理解させて下さった。

 それ故、私達はイエスの十字架の苦痛を見ることによって、私達の苦痛の全てはイエスによって体験され、イエスが私達の苦痛をになって下さった1)、と言うことに対する深い感謝が起こってくる。

 1)イザヤ書53章の4

 しかし、イエスの十字架の苦痛は苦痛だけで終わったのではない。イエスは十字架からおろされ、埋葬され、三日目に復活された1)。このイエスが復活されたことによって死が勝利にのみこまれたように2)、イエスの十字架で受けられた苦痛にも勝利が与えられた。即ち、イエスは復活の生命をもって、全ての苦痛に対して勝利をもって対処されることが可能になったのである。

 1)コリント前書15の3-4

 2)同上15の52-54

 であるから、イエスの十字架はあらゆる苦痛に対して勝利を勝ち得たのである。それ故、あらゆる苦痛(痛み)に悩まされている私達は、イエスの十字架によって私達の苦痛は解決され、勝利を得たのである。