第2節 十字架による勝利
イエスの十字架は、私たち人間の痛みをいやして下さる1)。その痛みの肉体的、心理的(精神的)、霊的(霊魂的)な面で大きないやしの効用をもたらし、苦痛に対する勝利を与えて下さる2)。また、痛みの原因となっている罪の処理をして、苦痛を取り除いて下さる。
1)イエスの十字架にはいやす力があるから。(ペテロ前書2の24)
2)3章1節の「イエスの十字架の痛みに対する勝利」で述べたように。
今までに観察してきたように、イエスご自身が十字架によって、痛みと罪に対して勝利して下さったように、私たち人間にとっても、十字架は解決の鍵を握っている。それは主イエスの受けられた痛みは、私達人間が受ける痛みの全てを経験して下さった。否、イエスは私達以上の痛みを己が身に受けられた。
であるから、私達はイエスが受けられた痛みによって、私達が受ける痛みに対して共通の接点が出来た。そして、イエスによって私達の痛みに対するいやしの道備えができたのである。
それでこの所では、十字架による勝利が、どのようになされていったのかを考察していくことにする。
十字架とその力
イエスの十字架は、あらゆる痛みのいやしの効果をもたらす流れとなっているので、私たち人間の魂をいやす豊かな源泉になっている。イエスの十字架が存在する限り、私たち人間の肉体と魂の健康は守られていく。その事に関し、神から多くの賜物を与えられていた神学者であり、牧師であるホラチュス・ボーナーはこのように述べている。「十字架は、霊的健康の源泉です。この源泉から発する力(デュナミス、ルカ6・19)は、どのような病でも癒します。なぜなら、『その打たれた傷によって、われわれはいやされる』(イザヤ53・5)からです。わたしたちは、主イエスのうちに『いのちの木』--『その葉は諸国民をいやす』--があるのを発見しました(黙示録22・2)。ゴルゴタは、完全な医師(主イエス)と乳香(彼の傷)とが準備されているギレアデになったのです。(エレミヤ8・22,イザヤ53・5)」1)。イエスの十字架から流れてくる贖罪の血は、罪を赦すだけでなく、生命を与える血でもある2)。
1)ホラチュス・ボーナー、聖書図書刊行会編集部、『きよめの道』、(聖書図書刊行会)、P81
2)イザヤ書53の5
であるから血によって与えられる生命は、私たちの肉体にイエスの生命を吹き込み、私たちの肉体と心と魂に活力を与え、病から守り、私たちの霊肉の健康を維持して下さる。何故なら、十字架上でイエスは生命を捨てることによって、私達に生命を与えなさった。即ち、イエスの死によって、私達は死から生命に立ち返らせられた。それは死をもたらす罪の痛みから解放されて、生かされて、私達は死の痛みからいやされたのである。
私たちはまさに、イエスの打たれた傷によって、私たちは病からいやされる。であるから、私たちのあらゆる痛みは、イエスの十字架によっていやしが可能となっている。であるから、私たち人間のすることは、ただこのイエスの十字架を信じ受けるだけである。
イエスの十字架は苦痛からの解放であり、いやしに対する大きな助けである。それはイエスの十字架が、私達のあらゆる苦痛をご自分の上に担って下さったから、私達は,私達が負っているあらゆる苦痛から解放され、その苦痛から自由にされたのである。又、イエスの十字架は苦痛と戦っている私達に逃れの道を備えて、助けて下さったのである。
その事に関して、ボーナーはこう語っている。「わたしたちの病に対する治療は、十字架のうちに啓示された『平和と心理の豊かさ』によって行われるのです。治療は、短時間のうちに完成されるのでありません。しかし、十字架を仰ぐことによって開始されたこの治療は、やはり十字架を仰ぐことによって完成されるのです。新しい健康の鼓動は、すべての血管で脈打っています。わたしたちは、この神的医療の効力と、わたしたちの病気がこの医療によって癒やされているということを、無条件で認めるのです。」1)。
1)ホラチュス・ボーナー、聖書図書刊行会編集部、『きよめの道』、(聖書図書刊行会)、P82
イエスの十字架は、私たち人間の病に対する思考に大きな変革を与えた。それに病は医者や薬にのみ信頼度を強く置くという常習的考えから脱皮させ、もっと強力で、信頼度の高い恵みである。それにイエスの十字架が病と痛みへの確実ないやしの手段であり、助けであるということである。勿論、著者は医者や薬の助けや信頼度を否定する者ではないし、その医療行為も大いなる助けであり、神はこれをも用いなさるお方である。しかし、優先度は主イエスの十字架による罪の癒やしが最初である。罪の癒やしの後に病気の癒しが始まる1)。
1)マタイ伝9の2-7
私たち人間は、もっと主イエスの十字架による罪の赦しを信じて、イエスの十字架のいやしを期待すべきである。それではイエスの十字架は具体的に何を、どのようにいやすのかという問題であるが、それはとても重大な内容を秘めている。その事についてボーナーはこう言っている。「たしかに、十字架はわたしたちを癒やします。十字架は、罪を殺すと同時に、”きよめ”のうちに生かすという二重の力をもっているのです。十字架は、すべての肉の実を衰えさせ、また他方、『愛、喜び、平和、慈愛、忠実、柔和、自制』(ガラテヤ5・22)という御霊の実をはぐくみ、熟させます。この十字架によって、霊魂の傷は、実際に、また徹底的に癒されるのです。この癒しは、けっして『手軽な傷のいやし』(エレミヤ6・14)ではありません。・・・傷だらけの霊魂は、十字架の香りによって回復していくのです。十字架は、それぞれの機能に、新しい調子と、新しい活力とを与えます。また、人生に対する新しい目的と、新しい希望とを与えて、わたしたちの目を上に向けさせます。さらに、十字架は、自我にたいして致命的な打撃を与えます。また、『地上の肢体』を殺し(コロサイ3・5)、『肉を、その情と欲と共に十字架につけて』しまいます(ガラテヤ5・24)。したがって、たえず十字架を仰ぎ続けていくなら、自分の霊魂が、病から健康へと回復し、悪の力は弱められ、善が強力になり、成熟するのを実際に感じとれるでしょう。」1)。
1)ホラチュス・ボーナー、聖書図書刊行会編集部、『きよめの道』、(聖書図書刊行会)、PP82-83
イエスの十字架は罪という頑固な病を殺して、私たち人間の霊肉を健康に復帰させる。そして、私たちの霊肉を健康の実質である、罪の誘惑に犯されないと言う、きよめの状態に進展させる。この事から、私たち人間の内に結実していた罪の実(肉の実)を排除し、新しく聖霊の実を植え付け、それを熟させ、成長させる1)。この聖霊の結実は、私たちの内にあった罪の傷跡が、全くいやされた証拠なのである。病んでいる魂(心)には、聖霊の実は豊かに結ぶことができないからである。又、十字架のいやしは、私たち人間の自我にまで到達する。その事をパウロはこう言っている。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ書2の20)。これは神秘的な経験である。そしてこの霊の経験を保持していくために、イエスの十字架を私たちは仰ぎ求めていく。即ち、イエスの十字架に対する信仰の継続が必要なのである。そうするならば、十字架によるいやしは、地下からわきいずる泉のように、十字架のいやしは枯渇することはなくなる。
1)ガラテや書5の22-23
癒やしとしての十字架
私たち人間にとって、誰一人病から免除されている者はない。そして、その病に対するいやしを必要としている。その病に対するイエスのお取り扱いについて、カルヴァンはこう記している。「なぜなら、われわれは同一の病気によってすべての人が同じように苦しんでいるのではなく、同じだけ困難な治療を必要としているのでもないからである。そこで、人それぞれに、別な種類の十字架によって修練されるのが見られる。けれども、天上の医師は、すべてのものを健康にするための方策とを講じようとするとき、あるものをよりやさしく扱い、あるものをもっと手荒い治療によってきよめたもう。しかし、誰ひとりとして除外されず、触れられずにはおきたまわない。なぜなら、すべての人が、ひとり残らず病んでいることを、かれは知っておられるからである。」1)。
1)Jean・カルヴァン、渡辺信夫訳、『カルヴァンキリスト教綱要Ⅲ/1』、(新教出版社)、P211
イエスの病や痛みにある人々の取り扱いは千差万別である。それは、ちょうど医師が個々の患者を扱うときに、同じような取り扱いをしないのと同じである。しかし、人間としての医師には限界があり、癒やすことのできない病や痛みが数多くあるが、霊の医師であるイエスには不可能な病や痛みはない。又、その一人一人に対する取り扱いも異なる。というのは、私たち人間は同じような病気や痛みによって苦しんでいるのではないからである。特に、私たち人間の肉体的、心理的、霊的な病や痛みは複雑で、治療に困難を来している。しかし、霊の医師(天上の医師)であるイエスは、どんなに複雑な難病であっても、その患部に触れて、見事に全きいやしを与えて下さる。それに、その人の魂の隠れたところにまで触れて、きよめて下さる。であるから、私たち人間は誰一人として、肉体的に、心理的に、霊的に病んでいない人はいないのであるから、イエスの十字架を仰ぐために、イエスのもとに行くべきである。そして、イエスの十字架によるいやしを受けるべきである。そうするならば私たちの生涯は肉体的、心理的、霊的な面で、豊かで祝福に満ちた恵まれた人生が、永遠的に保証される。そして、この世と来るべき生涯に備えた人生設計が創造される。
十字架と復活
イエスの十字架は、イエスの復活によって生きてくる。なぜなら、十字架はイエスの生命を捨てることによって、私たち人間に生命を与えられた1)。そして、その生命が躍動するのが、イエスの復活によるのである。であるから、イエスが死を打ち破って復活しなければ、今までのイエスの業は無意味になってしまう2)。
1)ヨハネ伝10の11
2)コリント前書15の14
又、私たちの病と痛みのいやしも、イエスの復活によって大きく支えられている。そして、イエスの復活は、イエスが永遠の生命の所有者であり、その生命の根源であることの証明なのである。その事を、イエスはこう言われている。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」1)。イエスご自身が死からよみがえって下さり、そのイエスを信じる者が同じようによみがえって、永遠の生命を所有する者となって、死の恐怖と死そのものから解放される。
1)ヨハネ伝11の24-25
イエスの復活は死に対する勝利の仕上げであった。その事に関して、思慮深く、健全で、穏健であるエーリヒ・ザウアーはこう語っている。「けれども、からだの復活こそ、贖いを成しとげるための必要条件であった。なぜなら、からだの復活だけが、死に対する贖い主の勝利の完全な仕上げであったからである。もしキリストがからだの復活なしに天に戻られたのなら、彼は死を完全に征服したことにはならなかったであろう(詩篇16・10)。彼はただ精神的および道徳的にだけ死にかったのであって、肉体の死に対する彼の勝利は、決して王者のよそおいをもっては現れなかったであろう。彼の勝利は、いはば『三分の二』の勝利であって、決して完全な勝利ではなかったであろう。なぜなら、彼の復活の勝利には、三重の人格性のうちの二つ、すなわち霊とたましいとだけが含まれ、肉体は含まれなかったであろうからである。」1)。
1)エーリヒ・ザウアー、聖書図書刊行会編集部、『十字架の勝利』、PP68-69
イエスの死が単なる道徳的、精神的な死だけを意味しているのであるならば、イエスの肉体的な死はどうなるのか。十字架上で私たち人間のために流された血、激痛を伴った苦痛の事実が無意味になってしまう。そして、イエスは単に無駄な死をしたことになる。しかし、イエスの十字架の死が私達に活力を与えることができるのは、イエスの復活なのである1)。イエスが復活されたことによって、十字架の贖いの業は生きてきて、私たち人間に大きな祝福の福音をもたらしてくる。即ち、イエスは復活によって、サタンがもたらしてくる死に対して、勝利を治められた。そして、イエスの復活はサタンの巧妙な死の罠から、私たち人間を救い出して下さった。その方法はイエスの肉体と心と魂を用いて、私たち人間のためにいけにえとなって、神の罪に対する怒りを和らげた。そして、イエスご自身が復活されたことにより、聖霊を通して天から私たちを守っていて下さっているのである2)。
1)ロマ書1の4
2)コリント前書15の57
イエスが肉体を持って復活した事によって、死に対する大きな解決をもたらした。病に対する敵は肉体の死であるから、その死に対する問題を解決したのが、主イエスの復活である。その事に関して、ザウアーはこう記している。「それゆえに肉体の復活なしには、生命の<どんな種類の>勝利も<ない>(コリントⅠ15・54-57)、肉体の復活なしには、勝利の明らかな実は<ない>。肉体の復活によってのみ、死が征服されたことを示すことができるのである。」1)。イエスの復活は死を打破し、死人に生命を与え、死に対して勝利を得ることである。主イエスはまさに、死から復活し、復活の肉体をもってよみがえられ2)、現在も私たちのそばで生きておられ、あらゆる病、苦痛に対して、最も近き助けとなって下さっておる3)。
1))エーリヒ・ザウアー、聖書図書刊行会編集部、『十字架の勝利』、P69
2)ルカ伝24の39
3)ヨハネ伝16の7,13
そして、この復活されたイエスは、弱き私たち人間を助けられて、私たちの希望と喜びとなって下さっている。特に、死をもたらす病や痛みに対しては、死を征服されて、死に対して勝利をもって臨まれておられる。であるから、死は私たち人間にとって、もはや恐れの対象の範囲から排除された。そればかりか、イエスは復活の初穂となって下さって、私たち人間に対しても、死から復活できるという希望を与えて下さった。私たちは、イエスの復活により、死から不死を着せられ、死から生命の驚くべき世界に移入される1)。
1)コリント前書15の52-54
又、主イエスの復活によって、私たちは、過去の人間生活では味あうことがなかった、経験したことがなかった、不可思議な、驚くべき、又神秘的なすばらしい世界を体験させて頂く。その事をザウアーは、このように私たちに訴えている。「<人体の復活>は主イエスの復活によってのみ可能である。イエスの復活は彼において人間性が変貌されたことであって、彼はその初穂である(コリントⅠ15・20,23,コロサイ1・18)。イエスの復活のときに旧約の多くの聖徒が生きかえらせられたことは(マタイ27・52,53)、贖われた者の復活の道が開かれていることを示す。イエスが死に勝ちを得られたことは、われわれの復活をわれわれに保証する(ローマ8・11,テサロニケⅠ4・14)。彼の栄光のからだはわれわれ自身の未来のからだの模型であり型である(ピリピ3・20,21,コリントⅠ15・49)。『初穂』の復活は全ての復活の基盤である(ヨハネ5・26-29)」1)。主イエスの復活は私たち人間の復活を可能にしたばかりではなく、人間の復活の現実化への道を開いて下さった。そして、イエスの復活によって、私たちの人間性が大きく変貌され、私たちの人間性に天的な品性を賦与して下さった2)。
1))エーリヒ・ザウアー、聖書図書刊行会編集部、『十字架の勝利』、P78
2)即ち栄光の体である、天上のかたち(Ⅰコリント15の49)を持つのである。
そして、イエスの復活によって、私たち贖われた者への復活が準備され、私たちに復活の保証の印が与えられた。そして、主イエスは復活によって、栄光の体へと変貌される。そして、イエスの栄光の体は、私たち人間が将来にイエスと同じように、変貌を遂げる未来の体の模型(タイプ)であることを明確に示している1)。であるから、主イエスの復活は、いまだ人間の復活が実現されていない私たちにとって、復活に至る希望になっている。特に、私たち人間の復活信仰に対する希望になっている。
十字架と力
イエスの十字架は、約2,000年前の出来事であるが、今なお信ずる私たちに、大きな影響をもたらしている。であるから、イエスの十字架は大昔の、単なる過去の遺物ではない。使徒パウロはこう言っている。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」2)。
1)コリント前書15の20
2)コリント前書1の18
イエスの十字架の力は過去のものなのではなく、今なお生きて働いている。そしてイエスの十字架は、イエスが十字架についた過去の時代から、現在の私たちの時代にまで、十字架の力は生き生きと働いている。しかし、イエスが十字架につけられた時代には、多くの人々が十字架上のイエスを呪い、罵倒し、信じなかった。そして彼らは、十字架上から苦痛に耐えながら語られたイエスのお言葉を、愚かにも信じなかった。この愚かな人々にとって、イエスの十字架の言葉は無意味であり、何の力ももたらさなかった。同様に現代の人々にも、十字架のイエスの言葉は、もし信じなければ、過去の人々と同じように無力で、無効な言葉となっている。しかし、イエスの十字架の言葉を受けた当時の人々は、大きな恩恵を受けたように、現代の私たちにも、イエスの十字架の言葉を信仰によって受け留めるならば、私たちは神の力を受ける。
さらにイエスの弟子であったペテロは、イエスの十字架の原点に戻って、イエスの十字架がどんなに大きな事をして下さったことか、ということを述べていて、次のように言っている。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。十字架の打ち傷のゆえにあなたがたはいやされたのです。」1)。ペテロはイエスを不人情にも三回も、心を込めて、強く、又、冷淡に否認した。ペテロには、イエスを否認したことは心が痛み、心責められるほどに、大変なものであった、ということがよく分かっていた。それ故、イエスの十字架が私たちの罪のためであり、その罪をご自分の身に負って下さったのである。痛々しい実感をもって、私たちに訴えている。イエスの十字架のありがたさとその大切さとを、ここに強調している。
1)ペテロ前書2の24
そしてペテロは私たちが、いやされるのは、イエスが十字架で受けて下さった打ち傷によってであると、切実に説いている1)。この言葉はペテロ自身の実感から綴られたメッセージである。これはただ傍観していないで、これを受けなさいという勧告をしている言葉である。まさに十字架は力がある福音の言葉である。十字架の言葉は人を励まし、人を活かす、そして人を神のために役立たせることができる。
イエスの十字架の持っているすばらしい力の一つとして、パウロは更に、こう言っている。「また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」2)。
1)ペテロ前書2の24
2)エペソ書2の16
イエスの十字架の恵みに浴すると、私たちの心から敵意がなくなってしまう。それはイエスご自身が十字架にかけられた経緯を見るならば、歴然とする。イエスはユダヤ人のねたみを動機に、十字架に付けられた。しかしイエスは、あの憎いユダヤ人に対して、敵意を持つどころか、十字架上で、彼らのために祈って、こう言っているのだ。「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」1)。であるから、イエスによって、私たちは敵意を取り除かれるだけでなく、敵意は十字架によって葬り去られてしまう。そして、私たちは敵意を持っていた相手と和解させられる。そのようにイエスの十字架は和解させる力をも持っている。このようにイエスの十字架は、私たち人間にとって、大きな業をなし、私たちには身に余るような、イエスの大きな大きな愛による犠牲であった。その十字架の力によって、私たち人間は活かされているのだ、ということを忘れてはならない。
1)ルカ伝23の34