結論
私たちにとって、痛み(苦痛)は不可避的な問題である。人間である以上、肉体的、心理的、霊的痛みは、私たちの一生涯に絶え間なく襲ってくる。しかし、この痛みのいやしは不可能な問題ではない。いやしの道が備えられている。予言者イザヤは、こう述べている。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」1)。
1)イザヤ書53の4
ここで言われている「彼」とは、イエス・キリストを指している。イエス・キリストが、私たち人間の痛み(苦痛)の解決の鍵を握っている。即ち、イエスの十字架によって私たちは、いやされる。予言者イザヤの表現を用いるならば「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」1)。イエスの十字架は、私たちの過去の痛みをいやしただけでなく、今後起こってくる、又、現在受けている痛みに対しても、十分ないやしを与える。それに現代の西洋医学や東洋医学(漢方療法)の解決できない限界に、著者は一石を投じて、もっとイエス・キリストの十字架によるいやしを、多くの人々に知ってもらい、現代医学と共に、否、現代医学をも淘汰するイエスの十字架による肉体的、心理的、霊的いやしを強調したい。
1)イザヤ書53の5
そういう意味から、現代の西洋、東洋医学に従事する方々を初めとして、多くのクリスチャンでない人々の、イエスの十字架によるいやしに関心を持ってもらい、十字架によるいやしにも注目して頂きたい。当然クリスチャンたちには、もっと十字架によるいやしに関心を抱き、それに信頼して頂きたいものである。
この「痛みの神学」は著者の1994年の時の病が契機となり、特にその内の一年間は、非常な苦痛の中で病と闘いながら、イエスの十字架の痛みのことを考えさせられた結果、イエスの十字架は著者個人を含め、全てのやめる人、苦痛の中にある人に、いやしの福音(Good News)を与えるものであることを確信した。
最後に、病める方々のことを偲びつつ、祈りつつ、結びの言葉とする。