序論

 人体は、神の手の創造によって造られた、偉大な造形的傑作品である。その事に関して神ご自身も、「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」1)と言われている。その神の手の創造による、私たちの人体(肉体)は、美しい創造物であると共に、又、損なわれやすく、壊れやすい弱点を持っている。それを巧みに利用して、神の創造物である人間を堕落2)させたのが、悪魔である3)。

 1)創世記1の31

 2)堕落とは神の律法を破り、罪に陥ること。その結果神との関係が損なわれてしまったのである。

 3)創世記3の1ー7

しかし人間にも大きな責任があった。

 そして、悪魔による堕落によって、人間の肉体は痛み1)、精神的(心理的)痛み、霊的痛みが始まった。これは、私たち人間にとっての最大の課題の一つになった。そして私たち人間は、この痛みに一生涯悩まされ続ける。又、一生涯かけて、私たち人間はこの痛みという課題の解決のために、迷路をさまよい歩いている。

 私たちにとって、この痛みは大変苦しいものである。そして、それが深い悩みと不安に陥らせる。

 更に、その霊的悩みが精神的(心理的)不安へと発展していく。この問題に、如何に取り組むかによって、私たちの一生涯は大きく変化する。そのことに関して、聖書は、こう言っている。「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。」2)。

 1)人は罪を犯したことによって、神に対して、申し訳ないという気持ちから、苦しみ悩むようになった。これが痛みとなった。

 2)マルコ伝2の17

しかも、この痛みの問題は、単に、人間の知識や体験によってのみ、解決しようとしているのなら、それは単なる解決であって、真の解決にはならない。ここに痛みの意味(意義)を見いださなければ意味がない。痛みには二つの意味がある。一つは肉体的痛み(特殊な神経組織によって伝えられる特定の感覚)、もう一つは肉体的と精神的とを問わず、それを受ける人の忌み嫌う経験(魂の痛み)である。

 では、どのようにして、私たちは痛みの意義を見出し、その意義を理解してゆけばよいのであろうか。それは人間の知識が、科学という学問の領域にだけ、とどまっているのでは解決への糸口は、つかめてこない。そこには人間の考えや、知識に優る、絶対的な思想、神についての考え(思想)の介入が必要である。この思想に関して、とても重要なアドバイスを佐藤陽二博士は、「否定的な思い、消極的な考え方、マイナスの気持ち、罪意識を持っていると、いつの間にか人生が暗くなってしまう。なぜならば、それらの思いが、自然に潜在意識の中に浸透し、事あるごとに、それらの思いが顕在意識となって現れ、失敗に導いてしまうというのである。問題が起こるたびに潜在意識に刻みつけられた暗い思いが、顕在意識を悪いほうへと進ませ、現実の問題を明るく積極的に解決できないようにしてしまう。その結果、自己に原因がある悪循環を繰り返すようになる。」1)と言っている。

 1)佐藤陽二、『イエスのたとえ話講解(マルコ)』、(聖文舎)、P31

 人間の痛み、肉体的、精神的(心理的)、霊的痛みには神との深い関係がある。痛みを神との関係なしで考えたとしたら、痛みの実体について知ることはできないし、その意味も十分に、理解することは不可能なのである。

 したがって、この痛みの神学は、人間の痛みの原点を見つめ、それを探求していく時に、痛みと神との関係が不可分なものである、ということに我々は気がつかされる。何故なら、神は人間の肉体を土のちりで造られたので1)、人間の肉体はもろく、病気に対しても感染率が高い。であるから、私たち人間は、この痛みから免疫を受けることはできない。

 この人間の痛みは、全き神性と人性をもつイエスと関わりを持っている。イエスは神の子であるが2)、神によって天から派遣されて、この地上に来られた。そして、33年と6ヶ月間3)、この地上で私たちと同じような生活をされた。

 1)創世記2の7

 2)メシヤの称号(ヨハネ1の49)で、その最深の意味において、父なる神との独自な秘義的関係を表現している(ヨハネ1の18)。

 3)イエスの誕生がBC5年、受洗と公生涯の開始がAD27年、死がAD30年となる。

それ故に様々な点で、肉体的、精神的(心理的)、霊的な痛みを、私たち人間と同じように、体験された1)。

 1)イエスはあらゆる面で、私達と同じような苦しみ、悩みと痛みを経験された。そのことについてヘブル書の記者は、このように述べている。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、全ての点で、私たちと同じように、試みにあわれたのです。」(ヘブル4の15)。

 であるから、イエスのこの痛みの体験は、私たち人間に、様々な痛みについての知識と思想を賦与してくれる。それと共にイエスは、この痛みをどのように考え、又、如何に体験し、その痛みに対して、どのように対処されたかという事を学ぶことによって、私たち人間にも、大きなヒントを与え、痛みからのいやしを教え、痛みへの対策を与えてくれる。イエスの痛みに関して、聖書は次のように証言している。「イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」1)

 1)マタイ伝27の46

 それでこの論文では、まず痛みについての一般論から、入っていくことにする。私たちの根本的な問題として、人間にもたらす痛みについてである。この痛みの問題は、私たちの社会的な問題になっており、様々な方面で、この痛みのための探求がなされ、その痛みの対策、その治癒が研究されている。しかし、この痛みの問題は、この社会では、まだまだ不可解な問題であり、未解決な問題である。

 それで、著者も、この痛みの問題に大変興味があり、是非この痛みの問題解決への手がかりを探り、これを明らかにしてみたいと思った。そして、この問題に着手した。

 それで第一に、人間の痛み(苦痛)に関して考えてみる。私たち人間にとって、痛みは耐え難い苦闘である。この肉体的痛みに襲われるなら、私たちはその痛さに耐えられず、大声を出したり、泣いたり、苦痛に耐えられず、体をねじ曲げて、もがき苦しむ。又、痛みは、私たちを死への恐怖へと追い立てる。ダビデはその痛みを、明白に告白している。「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。」1)。このように魂の痛みは苦しく、恐ろしいものである。

 1)詩篇32の3

 それで、痛みは、はじめは心理的な痛みから始まるわけである。心理的痛みとは何なのか、特に、医学的な面から考えた場合に、痛みを、どう見るかという事に関して、考えて見たい。痛みは、体と心、魂ににどのような影響を与えるのか。痛みはどこから来て、どこから始まるのか。そして、体全体にどのように伝達されていくのか、そのメカニズムは、どのようになっているのか、と考えていくと、とても不可解な問題である。それほど、私たちの肉体は繊細で、敏感なのである。

 次に心理的な痛み、魂の痛みは肉体的な痛みへと発展していく。パウロは心と魂の痛みに関して、「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。」1)と述回している。肉体と心は一体であり、密接な関係がある。肉体が痛むと心も痛む、という連体的な因果関係である。心が痛む、という事はどんなことなのだろうか。肉体的な痛みと、どのように相違するのだろうか。又、どのような共通点が存在するのであろうか。

 しかし、心が痛むことによって、次に肉体が痛む、という逆のケースもある2)。逆のケースと言うより、肉体と心とは相関関係にあるので、肉体から心の痛みという、どちらが先で、どちらが後である、ということは困難である。

 1)ローマ書9の2。イザヤ53の12を参照。

 2)心身症とは精神状態の影響で、からだに病気の症状があらわれるもの。例えば胃潰瘍、高血圧などがある。(三省堂現代国語辞典より)

 更に、魂の痛みは心の痛みへと進展していく。この痛みは、人間の手によってはいやしがたいものものである。そこで、ここに神の手の介入が、是非とも必要になってくる。何故なら神は、こうおしゃっているからである。「わたしは主、あなたをいやすものである。」1)このように人間の痛みを考えていく時に、私たちと同じく痛みを、経験されたお方がいる。神の子であった、イエス・キリスト、そのお方である。

 それゆえ、第二にイエスの痛みへと、ペンを進めていく。イエスも、私たちと同じように、肉体的な痛み、心理的な痛み、霊的な痛みを味わわれ、大いに苦しまれた2)。

 1)出エジプト記15の26b

 2)イエスは悪魔に必要な誘惑を受け、苦しまれた(マタイ4の1-11)。又パリサイ人、長老、学者から痛烈な非難、攻撃を受け苦しまれた。特に、ゲッセマネでの祈りでは心身が衰弱するほどの苦しみを経験して苦しまれた(ルカ22の39-46)。

このお方が、痛みを経験されたという事は、私たちの人生に、大いなる慰めとなる。何故なら、イエスについて、こう言われているからである。「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び。」1)。それは、私たちにとって、大いに力があり、助けとなるイエスが、私たちと同じ痛みの共有経験を持たれた。そして、それは、私たちに何らかの、痛みの解決への道が示されてくるからである。

1)ヘブル書5の8

 そして第三に、イエスが受けた究極的な痛み、死に至る痛みについて、述べる。これは、私たちの味わった痛みとは、天と地ほどの違いがある、イエスの十字架の痛みについてである。イエスはこの十字架の痛みを受けられる前、父なる神に祈って、このような苦しみから逸脱させて下さるように、願った。しかし、神の御心を逸脱するようにとは、願わなかった1)。

 やがて、このイエスの十字架の痛みは、私たちの痛みに大きな喜びの福音をもたらす。パウロは、こう言っている。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」2)。この十字架の痛みは、私たちの肉体的、心理的、霊的痛みから、私たちをいやし、解放して下さる。真に、イエスは、私たちの感謝の基である。

 1)イエスはこのように祈られた、「父よ、みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころまとおりにしてください。」(ルカ22の42)。

 2)コリント前書1の18

 したがってこの論文では、次の順序で述べることにする。第1章では人間の痛みについて。第2章ではイエスの痛みについて。第3章ではイエスの十字架の痛みについて。結論の問題としては痛みのいやしは不可能なものではなく、可能なものであることを述べる。イエスの十字架に解決の鍵がある。今後の問題として現代医学では解決できない限界に目覚めて、イエスの十字架によるいやしに関心を持ってもらい、それに信頼してもらいたいのである。

 又、現実的に著者は、十字架によるいやしを受け、重い病からいやしを経験させていただき(勿論西岡中央病院の佐藤医師の献身的な治療、多くの方々の背後からの祈りもあった)、深い感謝の中から、この論文が生み出された。そうであるから、単なる著者の思考の産物ではなく、著者の実体験に基づいた論文であるということを、申し添えておきたい。それと共に、病んでいる多くの方々、肉体的な面で、心理的な(精神的な)面で、霊的(魂の問題)な面で病み、痛み、悩んでいる方々への助けとなるように、との思いでかき綴った。使徒ヤコブの言葉の中に「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人々を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」1)という、大いに助けになる言葉がある。

 1)ヤコブ書5の15